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金沢市

 
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現在位置:トップの中の文化財と歴史遺産の中の歴史遺産保存の取り組みから歴史のまちしるべ標柱一覧
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歴史のまちしるべ標柱一覧

あ行

町名 よみがな 由来説明文 設置場所 現在の町名 備考/
番号
旧芦中町あしなかまち藩政時代からの町名「足半町といふは並び短く、尻切れたる町なり」と伝えられ、はじめは足中町とも書く。のち芦中町と書いた。弥生1−31−27先弥生1丁目
泉1・2丁目
3
旧穴水町あなみずまち加賀藩老臣、長氏の上級家臣らが住み、上家中町と呼ばれたが、長氏の祖先が能登の穴水城に居たことにちなみ、明治になって、この名がつけられた。長土塀1−51長町3丁目
長土塀1丁目
94
油車あぶらぐるま藩政初期、油屋与助という油屋が、この地に水車をつくり、灯油などの製造をしていたことからこの名がついた。油車29変更なし46
旧荒町あらまち寛永年間には木ノ新保新町と呼ばれ、新しくできたのでこの名がついたといわれる。元禄の頃には荒町となっているが、荒町は新町の意であろう。此花町2−44本町1丁目
此花町
堀川町
138
有松町ありまつまちもと石川郡有松村の地内で、享保のころから次々と家が建ち、文政4年その一部が有松町と称され、金沢町奉行の支配となった。明治12年、金沢に編入された。泉3−6−46有松2丁目
泉3丁目
1
旧安藤町あんどうまち藩政時代、鉄砲組頭、安藤長左衛門の組地があったので、この名がついた。また、あんどん町とも呼ばれた。石引3−7−56先石引1・3丁目
宝町
40
池田町いけだまち蔵宿業の池田屋長右衛門が居住していた池田屋小路を、明治4年、池田町一番町と改名したことからこの名がついた。池田町三番丁5先変更なし45
旧石浦町いしうらまちもと石川郡石浦庄下石浦村であったが、慶長年間、町地となりこの名がつけられた。城下町の本町の一つに数えられた。香林坊2−1−1香林坊1・2丁目
片町1丁目
66
石引町いしびきまち藩政の初め、金沢城の石垣を築くため、戸室山から切り出した戸室石を引いて運んだ道筋であったのでこの名がついたという。いしびきちょうとも呼ばれた。石引4−3−1石引1~4丁目
笠舞2丁目
H12.4.1
下石引町復活/44
写真を見る
泉町いずみまちもと泉野の地で、このあたりが北国街道筋であったため藩政の初めころから次第に家が増加し、この名で呼ばれた。明治22年泉町と泉新町に分けられ町名となった。泉1−3−8先泉1~3丁目
弥生1丁目
野町4丁目
7
旧石屋小路いしやしょうじもと安江町横町と呼ばれていた。藩政初期、藩の御用を勤める石工たちが住んでいたところから、この名がついた。武蔵町16−5武蔵町113
旧板前町いたまえまち藩政の初めころ、藩の台所奉行に属する板前足軽組地であったので、この名がついたといわれる。天神町2−190天神町2丁目57
旧藺田町いだまち古くから、金沢地方でも広く藺(い)草を栽培して畳表を作っていたが、慶長以前頃から小松表を用いるようになったので、城下の作付は廃止された。当時このあたりは藺田であったため、これを町名としたという。元菊町1−4−3先元菊町102
旧一本松いっぽんまつもと笠舞一本松、小立野一本松とも呼ばれていた。片側町で、一方町といったのが、一本松になったともいわれる。笠舞3−15−9笠舞3丁目、石引2丁目27
茨木町いばらきちょう加賀藩士、禄高二千五十石の茨木氏の屋敷があったことから、この名がついた。茨木町25先本多町3丁目(一部)43
旧岩根町いわねまち藩政初期、馬術の名人岩根十蔵が開いた馬場があったので岩根馬場と呼ばれたいたが、中期ころこの名がついたという。瓢箪町12−25彦三町1丁目
瓢箪町
笠市町
134
旧上田町うえだまち文政6年、山の上町から分立したもので、かつてこの辺りが用水の上方にある田地であったことからこの名がついた。森山2−9−30先森山2丁目161
旧上野町うえのまちもと石川郡上野村の村地で、馬坂や牛坂など坂の上の野であったことからこの名がついたといわれ、文政4年に町地に加えられた。小立野3−4−23小立野3丁目20
鶯町うぐいすまちこの地はかつて幽谷で、鶯が多く、鶯谷と呼ばれていたことにちなみ、明治になってこの名がついた。鶯町28先変更なし152
旧梅本町うめもとちょう廃藩直後、加賀藩の老臣一万八千石前田孝敬の邸地を東西に二分して作られた町で、その家紋「角の内梅輪」にちなんで、この名がついたという。大手町2−14大手町96
鱗町うろこまち藩政初期からの町名、新立町末うろこ町、犀川うろこ町、いろこ町などとも呼ばれた。当地に魚商が多く、鱗がよく見受けられたことによるとの伝承がある。鱗町112先幸町(一部)
本多町3丁目(一部)
39
旧大隅町おおすみちょう加賀藩の老臣、長大隅守の家臣が、寛文期に能登から移り住んだところで、新(荒)屋敷、新家中と呼ばれていたが、明治になってこの名がついた。中橋町2−27先中橋町127
大手町おおてまち藩政時代は金沢城の大手口であったのでこの名がついた。大手先、小坂口とも呼ばれ、大身の武士が住んでいた。大手町2−27先丸の内
兼六町
大手町
92
大樋町おおひまち昔大きな樋(とい)で水を引いていたことから大樋の名がついたという。この地はもと大樋村の村地であったが、藩政後期に町奉行支配地となり町地となった。明治の初め、この名が町名になった。大樋町8−24先大樋町
春日町
鳴和1丁目
165
旧大藪小路おおやぶしょうじ藩政前期、加賀藩士、禄高七百石の大藪勘右衛門にはじまり、以降代々の居邸がこの付近にあったので、この名がついた。片町2−7−15先片町2丁目63
旧御歩町おかちまち藩政時代、藩主を警護する歩(かち)が住んでいたので、この名がついた。はじめ観音下御歩(徒)町などと呼ばれていた。東山1−20−3先東山1丁目148
旧小川町おがわちょう藩政時代は、川(河)端町、西養寺前、誓願寺前、玄門寺前などのまちであったが、小川に沿ったまちなので、明治の初め、上、下小川町に改められた。東山2−14−22東山2丁目154
旧桶町おけちょう藩政の初め、藩の御用を勤める桶職人たちが屋敷地を与えられて住んでいたので桶屋町と呼ばれていたが、元禄のころからこの名になった。尾張町2−5−10彦三町1・2丁目
尾張町2丁目
117
旧御小人町おこびとまち藩政時代、藩主の行列の際にその身のまわり品の茶弁当、矢箱、提灯などを運ぶ御小人の組地であったので、この名がついた。扇町15−9先扇町
横山町
暁町
71
旧御仲間町おちゅうげんまち元禄のころは、御馬屋町と呼ばれ、藩の馬の世話をする仲間の組地があったことからこの名で呼ばれた。元町2−4−42先元町2丁目160
旧大音町おとうまち藩政時代、加賀藩士大音主馬の下屋敷があったので、大音家中と呼ばれていたが、明治の初め、この名がついた。おと町とも呼ばれた。石引3−7−6石引3丁目41
尾張町おわりちょう前田利家の出身地尾張から来た商人を住まわせたのでこの名がついたといわれ、藩政期は金沢の経済の中心地であった。また一時期尾張からついてきた足軽、小者などが住んでいたとの説もある。尾張町1−11−8尾張町1・2丁目106

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か行

町名 よみがな 由来説明文 設置場所 現在の町名 備考/
番号
柿木畠かきのきばたけ寛永8年・12年の火災の教訓から、この一帯を火除地とするため、藩士の邸宅を移転させ空き地にし、柿の木を植えた。万治年間から再び藩士の邸地となったが、地名として残った。柿木畠広坂1丁目
片町1丁目
H15.10.1
復活/58
写真を見る
旧柿木町かきのきまち三代藩主前田利常のときに火除地として城下の各地に柿木畠が設けられた。柿本人麻呂をもじり、柿の木のもとでは火が止まるに因んだといわれる。この地にも柿が植えられたが、後に町立てされてこの名がついた。扇町8−40先扇町
天神町2丁目
暁町
61
旧欠原町がけはらまち崖縁の通りであるため、藩政時代は笠舞がけ原、がけ片原町などと呼ばれていたが、のち、略してこの名がついた。石引2−25−13先石引2・4丁目
本多町1~3丁目
32
旧鍛冶町かじまち三代藩主、前田利常から刀鍛冶等で宅地を給わったものが住み、はじめ安江鍛冶町と称されていたが、のち鍛冶町と呼ばれた。此花町1−40此花町
本町1丁目
彦三町1丁目
安江町
笠市町
143
主計町かずえまち大阪夏冬の両役に功をたてた加賀藩士、富田主計の邸地があったところなので、この名がついたといわれる。主計町尾張町2丁目H11.10.1
復活
H16.5.1
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/109
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春日町かすがまち古くからあった山上春日社(小坂神社)の付近にできたまちなので、春日社門前、六町春日町とも呼ばれていたが、藩政後期この名に改められた。春日町9−6先春日町1~5丁目
春日町
164
片町かたまち藩政初期、この地は犀川が分流し河原になっていたが、片側に掛作りしてすまいをしたためこの名がついた。はじめこのあたり一帯を河原町と呼んだ。片町2−2−5片町1・2丁目56
旧金屋町かなやちょうもと今の尾山神社の地あたりにあった。藩の初め、銀座役金屋彦四郎らが居住し、金銀貨を鋳造したのでこの名がつけられ、元和の初め、この地に移されたという。金谷町とも書いた。東山2−16−7東山2丁目、森山2丁目155
旧上弓ノ町かみゆみのまち天和のころから足軽弓組の組地で、如来寺組、経王寺組と射場があり、小立野弓ノ町と呼ばれた。明治になって、如来寺組は上弓ノ町、経王寺組は中弓ノ町に、また、横山同心組の組地が下弓ノ町となった。小立野5−4−1小立野2・5丁目24
旧河内町かわちまち加賀藩の老臣禄高一万七千石の奥村氏の下屋敷(家中町)があったところで、同家の当主が河内守に任ぜられたことがあり、明治の初めこの名がついた。石引1−6−10先石引1丁目34
旧河原町かわらまちこの付近は、もと犀川の河原で、藩政初期、犀川の改修に伴って新たに作られた町の一つであるところから、はじめ、後河原町と呼ばれたが、のち、この名がつけられた。片町1−9−20片町1丁目48
旧観音町かんのんまち元和二年、観音院が卯辰山から移されたとき、観音院から浅野川大橋までの道を拡張し、この通りを観音町と称した。東山1−5−13東山1丁目149
菊川町きくがわちょう文政二年、犀川の雅名菊水川からこの名がついた。この地にあった芝居小屋の座元、菊川松之助の姓によったともいう。菊川1−2−15先菊川1・2丁目
城南2丁目
21
木倉町きぐらまち藩政の初めころ、藩の材木蔵があったのでこの名がついた。もとは木町、また一時期、西側半分は出大工町とも呼ばれていた。木倉町片町2丁目H15.8.1
復活/62
写真を見る
旧木ノ新保きのしんぼ古くは石川郡石浦庄木ノ新保村で、藩政初期のころ金沢城近くの西側からこの地に移り、一帯を木ノ新保と総称した。明治の初めこの名が町名になった。此花町6−10先本町1丁目、此花町139
旧木町きまち藩政のころ、材木問屋が集まっていたので、はじめ卯辰ノ木町、四丁木町などと呼ばれ、のち、この名がついた。東山1−4−40東山1・2丁目150
旧銀杏町ぎんなんちょう藩士本多家の家士であった茨木氏の邸地が当地にあり、同所にはイチョウの古木があったことに因むという。暁町9−35先桜町
暁町
65
旧九人橋下通くにんばししたどおり九人橋は東内惣構堀に架けられた橋で、橋番が置かれていた。十人並んで渡ると九人の影しか映らないという伝説から、橋の名がついたという。町名はここから生まれた。兼六元町11−35兼六元町88
旧九枚町くまいまち加賀藩の老臣奥村氏(一万二千石)の下屋敷地であり、同家の家紋九枚笹にちなみ、明治の初め、この名がつけられた。暁町19−2暁町68
旧胡桃町くるみちょうこの地の東外惣構堀にかかる橋を、橋詰の染師黒梅屋の名によって黒梅橋といったが、俗にくるみ橋と呼んだことから、明治4年この名で町立てされた。兼六元町1−14先大手町
兼六元町
小将町
78
旧玄蕃町げんばまち加賀藩重臣、津田玄蕃の下屋敷があったところで、明治の初め、この名がつけられた。橋場町13−17先橋場町
材木町
93
旧高儀町こうぎまちもと寺地などであったが、藩政前期に藩用地とし藩士の屋敷などを置いたので公儀町と呼ばれ、のち、公儀の文字をはばかりこの名に改められたという。長土塀2−2−9先長土塀2・3丁目81
旧五十人町ごじゅうにんまち藩政前期、加賀藩士小幡宮内の下屋敷があったが、のち、足軽五十人組が住んだので、この名がついた。白菊町9−5先中村町
増泉1丁目
白菊町
千日町
16
小将町こしょうまち藩政時代、藩主の身辺を護衛する小姓頭や小姓組の侍がここに置かれたので、御小姓町、小姓衆町、小姓町などと呼ばれた。加賀藩では小姓を小将とも書いたので、明治になって小将町となった。小将町1−15先小将町
東兼六町
73
小橋町こばしまち藩政時代、小橋は犀川大橋、浅野川大橋とともに金沢の三ツ橋と呼ばれ、金沢城防衛上の重要な拠点であった。この橋の近くにある町なので、明治になってこの名がついたという。小橋町1−19先小橋町
東山3丁目
156
旧五宝町ごぼうまち西末寺(本派本願寺別院)の門前で、藩政時代は西末寺町、西御坊町とも呼ばれていたが、明治の初め、この名に改められた。笠市町2−47安江町
笠市町
瓢箪町
141

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さ行

町名 よみがな 由来説明文 設置場所 現在の町名 備考/
番号
材木町ざいもくちょう元和2年、紺屋坂付近にいた町民が城郭修築用木材を宮腰港から運搬した功で材木を与えられ、この地に移転したためこの名がついたといわれる。材木町5−8先扇町
東兼六町
小将町
横山町
材木町
橋場町
83
旧栄町さかえまち藩政時代、人持組深美氏の邸宅があったので、深美小路と呼ばれた。明治の初め諸士の邸宅が商家となり、繁昌を願って栄町と称した。武蔵町11−7武蔵町105
旧桜木小路さくらぎしょうじもと泉野村の地で藩政期末までは越中屋小路・玄光院前通りと呼ばれていたが、このあたりから犀川河岸にかけて、桜の木が多く植えられていたので、明治の初め、この名がついた。寺町2−13−24寺町1・2・4丁目
泉野2丁目
4
旧桜畠さくらばたけもと泉野村の地で、城からの眺めをよくするため、桜の木が多く植えられたので、この名で呼ばれたという。寺町3−9−60先寺町1・3丁目
清川町
11
旧笹下町ささかまちもと泉野村の地であたり一帯が竹藪であったことからこの名がついたという。笹ヶ町とも書いた。寺町5−12−16寺町5丁目
野町3丁目
12
里見町さとみちょう加賀藩士、禄高千二百石の里見氏の屋敷があったことから、この名がついた。里見町54−2広坂1丁目(一部)52
旧醒ヶ井町さめがいちょう藩政時代は北広岡村領の請地で、前田土佐守の下屋敷(家中町)があった。目の醒めるようなきれいな水の井戸があったことから、明治2年、町名となった。広岡1−17広岡2丁目131
旧三社五十人町さんじゃごじゅうにんまち藩政時代、この地に足軽五十人組の組地の一つがあり、三社にあったことからこれを冠称にこの名がついた。長土塀2−18−28先長土塀2丁目
芳斉1丁目
三社町
98
三社町さんじゃまちこの付近は旧石川郡戸板郷三社村で、氏神三社の宮があったのでこの名になった。藩政時代は武家屋敷に農家、町家が混在した町であった。三社町7−9三社町
元菊町
長土塀2丁目
芳斉1丁目
110
旧地黄煎町じおうせんまち藩政初期、泉野新村から発達した町で、地黄という薬草を採取して地黄煎という飴薬を売り出したことから、この名がついたという。泉が丘1−2−45泉野町4・6丁目
泉が丘1・2丁目
2
旧塩川町しおがわちょう加賀藩士、塩川安左衛門の屋敷があったところなので、この名がつけられた。中央通町7−28先長町2丁目
中央通町
70
旧塩屋町しおやまち藩政の初め、金沢城北側の大手門付近に塩問屋があつまっていたので、この名がついた。寛永のころ、この地に移った。瓢箪町7−28瓢箪町142
十間町じっけんまち寛永以前からの古い町名で、当初の戸数が十軒であったことから、この名がついたという。十間町44変更なし103
旧品川町しながわちょう加賀藩士品川氏の邸地があったところなので、この名がつけられた。天神町2−16天神町2丁目54
島田町しまだまち藩政の初期から元禄のころまで当地に島田勘兵衛の屋敷があったが、その後邸地を返上、島田勘兵衛上地町と呼ばれ、享保の町絵図では島田町と記されている。 本町2丁目
昭和町
125
旧主馬町しゅめまち藩政時代、鉄砲頭をしていた本庄主馬の邸地があったので主馬殿町と呼ばれ、のち、この名がついた。菊川2−17−7先菊川1・2丁目
幸町
25
白菊町しらぎくちょう加賀藩士、前田平太夫の下屋敷があったところで、その定紋「菊一文字」にちなんで、この名がついた。白菊町11−1変更なし18
旧白山町しらやまちょう藩政時代、波着寺門前と呼ばれていたが、波着寺の山号が白山であるところから、明治4年、この名に改められた。石引2−20−19先石引2丁目28
旧白銀町しろがねちょう藩政初期は安江村であった。町地が広がったため安江木町となり、その一角に白銀細工師がいたため町名になったという。玉川町11−18本町1・2丁目
玉川町
武蔵町
119
新町しんちょう藩政初期からの町名で、尾張町に家屋が増え、町地が狭くなったので、新しく町立てされたため、この名がついた。尾張町2−9−12尾張町2丁目H21.11.1
下新町
復活/108
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杉浦町すぎうらまち藩政初期、加賀藩士、杉浦仁右衛門の預り足軽の組地であったことからこの名がついた。杉浦町13先変更なし35
旧助九郎町すけくろまち藩政時代、本間助九郎または葛巻助九郎の邸地があったので、この名がついたという。野町2−30−1先野町2丁目15
折違町すじかいまち鞍月用水に斜めにかけられた橋をすじかい橋といい、この名が町の名になった。はじめすじかい橋町ともいった。昭和町8−1折違町
昭和町
122
旧仙石町せんごくまち千石町とも書いた。藩政初期からの町名であるが、その由来は明らかではない。広坂2−2香林坊1丁目
広坂2丁目
尾山町
67
千日町せんにちまちこの町に真言宗の雨宝院があり、山号が千日山であるところから、この名がついた。千日町1−3野町2丁目
中村町
千日町
白菊町
17
旧仙人町せんにんまち明治3年の町立て、町名の由来は不詳だが「こんな荒れたところに住むのは仙人しか居ないから仙人町としたらいい」と命名されたという。千人町とも書いた。清川町10−9先清川町5
旧象眼町ぞうがねまち藩政時代、地子町の一つで、象嵌師が住んでいたことからこの名がついた。ずがねまちともぞうがんまちともいった。安江町5−10笠市町
安江町
135
旧宗叔町そうしゅくちょう元禄のころ堀宗叔という医師が住んでいたのでこの名がついた。堀家は代々藩医をつとめていた。玉川町2−20先玉川町
芳斉1・2丁目
99

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た行

町名 よみがな 由来説明文 設置場所 現在の町名 備考/
番号
旧大工町だいくまち寛永の大火のあと、ここに拝領地を受けて藩の御大工衆が住んだことからこの名がついた。片町2−11−6先片町1丁目(一部)51
旧大衆免だいじゅめこの付近は昔、神宮寺の大衆の免田で、税が免除されていたのでこの名がついたといわれ、明治初年には大衆免を冠する町が十八あった。森山1−3−17森山1丁目157
旧台所町だいどころまち藩政時代、この地に台所付足軽などの組地があったところから、この名がついた。菊川1−29−1菊川1丁目
城南2丁目
23
高岡町たかおかまち越中高岡に隠居していた二代藩主前田利長が、家臣を高岡からかえし、この地に住まわせたため、この名がついた。高岡町15−1香林坊2丁目
高岡町
武蔵町
82
旧鷹匠町たかじょうまち寛文の初めころから、藩の鷹匠の邸地や鷹部屋がここにあったので、この名がついた。石引4−6−1石引2・4丁目36
旧高道町たかみちまち藩政初期の北陸道は、現道路よりやや西にあったいまの道が山側で高いところを通ったので、この名で呼ばれるようになった。山の上町1−28先東山2丁目
山の上町
森山1丁目
158
旧竹田町たけだまち加賀藩士禄高三千五百三十石の竹田氏の下屋敷(家中町)があったところなので、明治2年、この名がついた。長土塀3−20−3先長土塀3丁目90
旧玉井町たまのいまち加賀藩士禄高五千石の玉井氏の屋敷と同家の下屋敷・家中町があったところで、明治の初めこの名がついた。昭和町16−3先本町2丁目
昭和町
137
旧田丸町たまるまち加賀藩士、田丸兵庫が藩政初期に住んでいたところで、兵庫は寛永期大聖寺藩に仕えたので、田丸兵庫上ヶ地町と呼ばれていた。のち、略してこの名がついた。本町2−18−8本町1・2丁目
昭和町
129
旧茶畠ちゃばたけこの地はもと泉野村領で、藩政時代に茶の木を多く植えたので、この名で呼ばれたという。寺町4−6寺町4丁目6
旧蔦町つたまち加賀藩士禄高七千六百五十石の青山氏の下屋敷(家中町)があったところで、同家の家紋「丸の内蔦」にちなみ、明治の初めこの名がついた。三社町11−23三社町
元菊町
101
旧土取場つちとりば藩政前期から、このあたりの土を取って瓦を焼いたところからこの名がついたといわれ、また、土居や堤防を築くときにも使われたといわれる。かつては土取場を冠する町が三町あった。宝町13−1石引1丁目
宝町
37
堤町つつみちょう藩政期以前にできた寺内町の一つで、堀り上げた土の堤上に町地ができたことから、この名がついた。寛永十二年の火災を機に西内惣構堀の内からこの地に移された。 高岡町・尾山町の各一部H21.11.1
上堤町
復活
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旧手木町てこまち藩政時代、城中の露地方として庭造りをしたり、藩主の行列の際に荷物を運搬する手木足軽の組地であったので、お手木町、御手木ノ町と称され、明治4年、手木町となった。てこのまちとも呼ばれた。本多町1−11−5先本多町1丁目31
寺町てらまち加賀藩初期、城下町整備のため前田利常の命により、主に犀川周辺の寺をこの地に集めたので、この名がついた。寺町4−2−6寺町1~4丁目10
出羽町でわまち藩政初期、藩の重臣、篠原出羽守一孝とその一族、家臣などが住んでいたので、この名がついたといわれる。昔は出羽殿町とも呼ばれていた。出羽町3−1石引4丁目
兼六町
出羽町
本多町2・3丁目
49
旧伝馬町で(て)んままち藩政時代、藩用の人や荷物を運ぶために66匹の伝馬が置かれたことからこの名がついた。藩初は橋場町付近に置かれていたという。片町2−30−1片町2丁目
中央通町
長町2丁目
53
旧同心町どうしんまち藩政期に同心(加賀藩では足軽の一種)が住んでいたために名づけられたといわれている。小金町1−33先小金町
春日町
163
旧百々女木町どどめきちょう藩政時代、木曽谷に注ぎ込む川の流れが急で、高い音をたてていたところから、ここに架けられた橋をどどめき橋と呼び、この名が町名になったという。宝町12−1先石引1丁目
宝町
42
旧殿町とのまちもとは十間町の地内にあり、藩政期には、その中の武家地を殿町と呼んだことからこの名がついた。大手町13−10先大手町
尾張町1丁目
97
飛梅町とびうめちょう前田対馬守長種にはじまる藩の老臣一万八千石前田氏の下屋敷(家中町)があったところで、同家の家紋「角の内梅輪」にちなみ、明治2年、この名がつけられた。飛梅町石引3丁目
東兼六町
H12.4.1
復活/50
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旧富本町とみもとちょう文政6年に法船寺町から分立し、町内には鍔屋小路も含まれていた。明治4年、広小路と等雲寺門前を合併する。町名の由来は不詳。長町2−7−3先中央通町
長土塀3丁目
長町2丁目
76
旧巴町ともえまち加賀藩士伴八矢の下屋敷(家中町)があったところで、その家紋「左三つ巴」にちなんで、明治の初め、この名がついた。笠市町5−35先笠市町
安江町
133
旧豊国町とよくにまち観音山下町が改称されたもの。豊国神社社殿の麓にあったことから、明治元年、この名がついた。東山1−36−21先東山1丁目147

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な行

町名 よみがな 由来説明文 設置場所 現在の町名 備考/
番号
旧長柄町ながえまち藩政のころ、参勤交代のときなどに長柄の槍を持つ人達が住んでいたので、この名がついた。菊川1−17−1先菊川1丁目22
長土塀ながどへ藩政時代、この付近に長、村井、今枝などの武士の下屋敷があり、外囲いの土塀が長く続いていたので、この名で呼ばれている。長土塀1−15−13先長土塀1・2丁目
芳斉1・2丁目
長町3丁目
三社町
91
旧長門町ながとまち加賀藩士、山崎長門の邸地があったところで、はじめは長門上ヶ地町と呼ばれたが、のち、この名がついた。片町2−26−1先片町2丁目
中央通町
59
中橋町なかばしまち宮腰往還を横切る3本の用水に、三つの橋が架けられその中央の橋を中橋と呼んだ。この橋の近くにある町なので、この名がついた。中橋町90先中橋町
長田1丁目
130
旧中町なかまち藩政初期、金沢城大手門から出る本通りの町だったのでこの名で呼ばれ、本町の一つとして重んじられた。尾張町1−4−1先大手町、尾張町1丁目104
長町ながまち藩政時代はすべて藩士の邸地で、香林坊下から図書橋(ずしょばし)あたりまでの長い町筋であったところから、この名がついたという。また、藩の老臣長氏や山崎長門の氏名に由来するともいう。長町1−1−23先長町1~3丁目
片町2丁目
長土塀2丁目
72
七ツ屋町ななつやまちもと石川郡下安江村の地内で、民家七軒があったので堀川七ツ屋と呼ばれていた。のち、七ツ屋と称され、明治の中ごろ町名になった。七ツ屋町ニ23番地変更なし146
旧七曲りななまがり藩政時代、侍町の西に続いて折れ曲がった町筋であることからこの名がついた。三社七曲りともいった。長土塀2−10−25先長土塀2丁目95
並木町なみきまち藩政時代、浅野川の護岸のために川沿いに植えられた松並木にちなんで、この名がついたという。並木町材木町
橋場町
H17.10.1
復活/100
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旧成瀬町なるせまち加賀藩重臣、成瀬氏邸地があったのでこの名がついた。昔は高石垣の上に楼門、長屋などがあり、俗に加賀の小城と呼ばれた。東兼六町10−8先東兼六町60
旧西町にしちょう金沢御坊の西にできたのでこの名がついたといわれ、のち尾山城(金沢城)になってからできたという説もある。佐久間盛政が金沢御坊を攻め取って西町口を城の大手とした。尾山町9−13丸の内
尾山町
86
旧二十人町にじゅうにんまち藩政のころ、鉄砲足軽二十人をこの地に住まわせたことから、小立野二十人町、小立野足軽町二十人町などと呼ばれた。明治4年、付近の町を加えて二十人町となった。石引2−6−32先石引2丁目33
旧沼田町ぬまだまちもと石川郡泉野村の地内であったが、文政6年町立てされた。もとは沼地であったことからこの名がついたといわれる。野町3−21−5寺町4丁目
泉野町3丁目
野町3丁目
9
野町のまち藩政の初め、松林や雑木林などの地であったが、城下町の拡大に伴い町地となったので、はじめ泉野町といわれ、のち、略されてこの名で呼ばれるようになった。野町3−1−27野町1~4丁目
千日町
14

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町名 よみがな 由来説明文 設置場所 現在の町名 備考/
番号
旧博労町ばくろまち藩政期、馬を売買するかたわら、藩士の稽古用の賃馬を飼育する博労たちが住んだことからこの名がついた。馬労町とも書いた。尾張町2−4−12先丸の内(一部)
大手町(一部)
尾張町1・2丁目(一部)
112
橋場町はしばちょう天正年間は懸作・掛作とよび、商人が浅野川の河原に掛作(仮屋)を作って商売をしていた。藩政期には橋爪町・橋端町ともいった。町名は大橋詰めの位置に由来するという。橋場町4橋場町
尾張町1・2丁目
107
旧八幡町はちまんまち卯辰八幡宮が、慶長4年から明治6年まで宇多須神社の地にあったので、社号からこの名がついた。東山1−30−8先東山1・2丁目151
旧英町はなふさちょうもと安江木町の一部で、町内に英田広済寺があったことから、文政4年、町名改めのとき「英」の一字を用いて町名とした。本町2−5−2先芳斉2丁目
本町2丁目
123
旧馬場崎町ばばさきちょう藩政時代、藩の老臣横山氏上屋敷の馬場の横通りを馬場先と呼んでいたので、明治の初め、この名がついた。暁町3−5先桜町
暁町
横山町
75
旧早道町はやみちまち藩政時代、藩の足軽飛脚が居住していた組地であった。飛脚のことを早道と呼んでいたので、この名がついた。幸町17−13菊川2丁目
幸町
26
彦三町ひこそまち加賀藩の重臣、不破彦三とその家臣が住んでいたので、この名がついた。藩政時代、彦三殿町とも呼ばれていた。彦三町1−9−5彦三町1・2丁目
瓢箪町
尾張町2丁目
安江町
118
旧備中町びっちゅうまち加賀藩士、岡島備中の下屋敷があったところで、元禄ころは備中上地町といいい、のち、この名となった。材木町17−30材木町85
旧百姓町ひゃくしょうまちもと石川郡石浦村の農地であったが、江戸時代前期(寛永8年以前)に町立てされた。農民が住んでいた町ということからこの名がついた。幸町6−23先幸町29
瓢箪町ひょうたんまち藩政の中ごろまでこのあたりは塩屋町の一部で、この地に瓢箪をつくる者がいたから、また瓢箪を売る店があったことから、この名がついたといわれる。瓢箪町5−48変更なし136
旧火除町ひよけまち藩政時代、防火のため城下町の所々に空地を設けて火除地としたが、ここもその一つであったのでこの名で呼ばれた。火避町とも書かれた。暁町4−28先暁町69
旧日吉町ひよしまち藩政時代に宮腰往還から広岡山王社への山王道が通称日吉町と呼ばれ、明治期に町名となったが、鉄道高架事業で高架下に消えた広岡1−17−25広岡1丁目
中橋町
128
旧広岡町ひろおかまち「ひろか」の地名は平安末期に見え、平岡野・弘岡と書き、藩政期には北広岡村となり、町地の拡大で広岡町となった。広岡1−17広岡1~3丁目
西念1丁目
駅西本町1丁目
132
旧吹屋町ふきやまちもと石川郡田井村の地内で、鋳物師や職人が住んだので、この名がついた。藩政期の記録には、鎔屋町(いがたやまち)とも書かれている。桜町23−16先桜町64
袋町ふくろまち藩政期の本町の一つで、この町筋が北国街道であった。道の両端が曲って袋のようであったところから、この名がついたという。袋町安江町
尾張町2丁目
H19.3.1
復活/114
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旧藤棚ふじだなこの地はもともと成福寺・白山社の旧地で成福寺門前といわれていた。境内に大きな藤棚があったので、通称藤棚とも呼ばれていたが明治4年町名になった。城南1−7−16先城南1・2丁目19
旧淵上町ふちのえまち浅野川の淵の上にできた町で、藩政のころは堀川川除町、堀川淵上町と呼ばれていたが、明治の初め、この名に改められた。堀川町13−1先笠市町
堀川町
144
旧古寺町ふるでらまち藩政初期この地に寺が集められていたが、元和のころになってそのほとんどを寺町台へ移し、跡地をこの名で呼ぶようになった。片町2−3−7先片町2丁目55
旧古道ふるみち金沢城下から宮腰(金石)へ通じる古い道であったが、元和2年新しく往還ができたので、新道に対して古道と呼んだ。昭和町5−13昭和町
芳斉2丁目
元菊町
中橋町
長田1丁目
120
芳斉町ほうさいまち上杉景勝、松平忠直に仕え勇名をはせた青木新兵衛芳斉が、三代藩主利常に五千石をもって招かれてこの地に住んでいたので、のち、この名で呼ばれた。芳斉2−3−8芳斉2丁目116
旧宝船路町ほうせんじまち寛永の大火のあと、犀川大橋詰にあった法船寺がこの地に再建されて、門前町をつくり法船寺町と呼ばれた。明治4年、宝船路町に改められた。中央通町11−46先中央通町
長町2丁目
74
堀川町ほりかわまち粟崎・大野等の港から、舟で金沢へ荷物を運ぶため、元和のころ浅野川を掘り開いたことから、このあたり一帯を堀川と呼び大いに賑わった。堀川町22−19堀川町
笠市町
145
旧母衣町ほろまち藩政のはじめころ、母衣衆と称する武士の邸地があったので、この名がついたという。尾張町2−16−22先彦三町1丁目
尾張町2丁目
115
本多町ほんだまち加賀藩の老臣本多安房守の下屋敷があったところなのでこの名がついた。かつては、本多氏の名をかぶせた町が15あった。本多町3−2−1本多町1~3丁目
出羽町
47

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ま行

町名 よみがな 由来説明文 設置場所 現在の町名 備考/
番号
旧又五郎町またごろうちょう加賀藩士、横山又五郎の邸地があったので、明治の初め、この名がついた。材木町6−30先材木町84
旧松原町まつばらちょうもと松原口門の前にあったことからこの名がついたという。藩政期には権現堂御門前町ともいい、のち御門前松原町といった。尾山町2−27香林坊1丁目
尾山町
87
旧水車町みずぐるままち藩政初期、松任から来た油屋が用水に水車をかけて灯油などの製造を行ったことから、この名がついた。小橋町2−29先小橋町
元町2丁目
159
水溜町みずためまち犀川の河原であったが、川跡を追い追い埋め立て、埋め残りに水溜堀があったのでこの名がついた。元禄年間、60メートル余のこの堀は水溜と呼ばれ、消防に役立った。水溜町3−1先変更なし38
旧味噌蔵町みそぐらちょう藩政初期に軍用の味噌蔵が建てられていたところから、この名がついたという。大手町8−25先大手町
尾張町1丁目
兼六元町
橋場町
89
旧三構みつがまえもと高巌寺前といったが、これを光岩寺前とも書き、のちに光岩前と略して「みつがんまえ」と呼んだことから、この名がついたといわれる。芳斉2−4−15先芳斉1・2丁目111
南町みなみちょう佐久間盛政が城主のころ城の南にあったので、この名がついた。文禄元年この地に移転したが、寛永12年の移転説もある。尾山町2−3先高岡町
香林坊1・2丁目
尾山町
H20.11.1
復活/80
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旧元車町もとぐるままち藩政初期、大豆田用水に水車を設け灯油を製造したところから、犀川油車、油車町とも呼ばれていたが、のち、この名がついた。長土塀3−26先長土塀2・3丁目79
旧桃畠町ももばたけまちもと泉野村の地で藩政期に桃の木が多く植えられたので桃畠と呼ばれたという。また、古くからこの地に桃畠があったからともいわれる。のち、民家が建ち、明治4年、町名になった。弥生1−7野町3丁目
弥生1丁目
8
旧森下町もりもとまち藩政初期、森下村の郷士亀田大隅の子孫が染工になって居住していたので、この名がつけられた。東山3−4−24先東山1~3丁目
森山1丁目
153

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や行

町名 よみがな 由来説明文 設置場所 現在の町名 備考/
番号
旧柳町やなぎまち町名の由来は、かつて伊予西条城主だった一柳監物の預所があり、その名に因んだという。その周辺に柳の木があったことによるとの説もある。本町2−7−8先本町1丁目
昭和町
124
旧山田屋小路やまだやしょうじ藩政時代、山田屋という魚屋が数代にわたり住んでいたところから、この名がついたという。幸町12−1幸町30
山ノ上町やまのうえまち「山ノ上」の名は、古く室町期から見られるが、藩政期、河北郡小坂庄山ノ上村の一部を町地とし、その名を町名とした。山の上町31−1先山の上町
森山1・2丁目
162
旧弓ノ町ゆみのまち藩政時代、弓組の侍が住んでいたところで、後弓ノ町、升形弓ノ町とも呼ばれていたが、明治の初め、この名に改められた。地名などを冠した弓ノ町がほかにもあった。本町1−2−39本町1・2丁目126
横山町よこやまちょう加賀藩の老臣横山氏が、下屋敷のあったこの地に元禄から藩末まで代々家臣とともに住んでいたので、この名がついた。横山町352横山町
材木町
77

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ら行

町名 よみがな 由来説明文 設置場所 現在の町名 備考/
番号
旧六斗林ろくとばやし平安時代の末に六動太郎光景という武士が住み、その付近に樹木が生い茂っていたので六動林と称され、転じてこの名になった。野町3−15−14先弥生1丁目
野町3丁目
13
六枚町ろくまいまち藩政前期からある町人町で、この町の宅地税である地子銀が年間6枚であったところから、この名がついたと伝えられている。六枚町六枚町H16.6.1
復活/121
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お問い合わせ先

文化スポーツ局 文化財保護課
電話番号:076-220-2469
FAX番号:076-224-5046
bunkazai@city.kanazawa.lg.jp

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