保存のための器や食器として焼き物が用いられるようになったのは、縄文の時代からです。それから歳月を経て、大陸から技術が渡り、それぞれの地で独自の発展を遂げてきました。
金沢市には「九谷焼」と、「大樋焼」という二種類の焼き物があります。両方とも江戸時代にできた、全く風合いの違ったものです。

九谷焼は明暦元年(1655年)頃、九谷鉱山の開発中に発掘された陶石で作られ始めた磁器です。加賀藩の後藤才次郎が肥前有田で技術を習得し、九谷の地で窯を築きました。
このころに出来た色絵磁器を「古九谷」とよんでいます。古九谷はそれから50年ほどで廃窯し、衰退してしまいましたが、それから約100年後、加賀藩によって京都から名陶工の青木木米が招かれ、再興九谷が誕生しました。

大樋焼は、寛文6年(1666年)、五代藩主綱紀に、茶道の手ほどきで京都から招かれた裏千家の千宗室・仙叟(せんそうしつ・せんそう)と同行した、楽焼きの名工、長左衛門によって作られました。金沢の北部に位置する大樋村で焼き物に適した土を発見し、窯を開いたので、大樋焼とよばれるようになりました。お茶を飲むために作られた焼き物で、とりわけ仙叟の指導の元に作られた大樋焼の茶碗は名品といわれています。