本文へジャンプ
 

金沢市

 
  • ENGLISH
  • 中文
  • 한국어
  • OTHERS
文字を拡大する文字を標準にする文字を縮小する
  • よくある質問 
  • 読み上げ・拡大(ホームページ閲覧補助ソフト) 
  • サイトマップ 
  • サイト内検索
観光トップへ
現在位置:トップの中の市民活動・相談の中の旧町名復活からさ行
印刷用ページを表示する
 

さ行

旧町名 よみがな 由来 現在の町名 住居表示の実施 備考
犀川下川除町 さいがわしもかわよけまち寛政7年(1795年)、川除町のうち、宝久寺辺りから大豆田の町端までを犀川川除町とし、上川除、下川除、中川除などとした。地子町の一つ片町2丁目、
中央通町
S40.9.1 
栄町 さかえまち藩政時代、人持組深美氏の邸宅があったので、深美小路と呼ばれた。明治4年、諸氏の邸宅が商家となり、繁昌を願って栄町と称した武蔵町S45.6.1 
桜木一の小路 さくらぎいちのしょうじ一から十の小路がある。町名は犀川河岸一帯にかけて桜の木が植えられていたことによるとも、泉野村の桜木神社の社名ともいわれる。元泉野村の地で藩政期末までは越中屋小路・玄光院通りと呼ばれていた寺町1・2丁目S38.6.1 
桜木二の小路 さくらぎにのしょうじ寺町2丁目S38.6.1 
桜木三の小路 さくらぎさんのしょうじ寺町2丁目S38.6.1 
桜木四の小路 さくらぎよんのしょうじ寺町2丁目S38.6.1 
桜木五の小路 さくらぎごのしょうじ寺町2丁目S38.6.1 
桜木六の小路 さくらぎろくのしょうじ寺町2丁目S38.6.1 
桜木七の小路 さくらぎななのしょうじ寺町2・4丁目、
泉野町2丁目
S38.6.1 
桜木八の小路 さくらぎはちのしょうじ寺町2丁目S38.6.1 
桜木九の小路 さくらぎきゅうのしょうじ寺町2丁目S38.6.1 
桜木十の小路 さくらぎじゅうのしょうじ寺町2丁目S38.6.1 
桜畠一番丁 さくらばたけいちばんちょう一番丁から十番丁まである。町名の由来は、一帯に桜が植えられていたことによるといわれているが、桜のほかに、柿、栗、ブドウ、椿なども植えられていたという。古くは泉野村の荒地であった寺町1丁目S38.6.1 
桜畠二番丁 さくらばたけにばんちょう寺町1・3丁目S38.6.1 
桜畠三番丁 さくらばたけさんばんちょう寺町3丁目S38.6.1 
桜畠四番丁 さくらばたけよんばんちょう寺町3丁目S38.6.1 
桜畠五番丁 さくらばたけごばんちょう寺町3丁目S38.6.1 
桜畠六番丁 さくらばたけろくばんちょう寺町3丁目S38.6.1 
桜畠七番丁 さくらばたけななばんちょう寺町3丁目S38.6.1 
桜畠八番丁 さくらばたけはちばんちょう寺町3丁目S38.6.1 
桜畠九番丁 さくらばたけきゅうばんちょう寺町3丁目S38.6.1 
桜畠十番丁 さくらばたけじゅうばんちょう寺町3丁目、
清川町
S38.6.1/
S39.4.1
 
笹下町一の小路 ささかまちいちのしょうじ一から三の小路がある。もと泉野村の地にあたり一帯が竹藪であったことからこの名がついたという。笹ヶ町とも書いた。地子町の一つ寺町5丁目S42.9.1 
笹下町二の小路 ささかまちにのしょうじ寺町5丁目S42.9.1 
笹下町三の小路 ささかまちさんのしょうじ寺町5丁目、
野町3丁目
S42.9.1 
醒ヶ井町 さめがい
ちょう
藩政時代は北広岡村領の請地で、前田土佐守の下屋敷(家中町)があった。目の醒めるようなきれいな水の井戸があったことから、明治2年、町名となった広岡2丁目S61.2.1 
三間道 さんげんみち三軒道とも書く。町名の由来は、家が三軒あったことによる。地子町の一つ野町1・3丁目S42.9.1 
三社五十人町 さんじゃ
ごじゅう
にんまち
藩政時代、この地に足軽五十人組の組地の一つがあり、三社にあったことから、これを冠称しこの名がついた長土塀2丁目、
芳斎1丁目、三社町
S40.9.1 
三十人町 さんじゅうにんまち三十人組組地があったことに由来する。三十人組とは、鎗持、草履取などを職とする小者の組で30人を単位に一組を形成していた。明治4年に町立てされた天神町2丁目S41.2.1 
地黄煎町 じおうせん
まち
藩政初期、泉野新村から発達した町で、地黄という薬草を採取して地黄煎という飴薬を売り出したことから、この名がついた。文政4年(1821年)、一町として町立てされた。地子町の一つ泉野町4・6丁目、泉が丘1・2丁目S38.6.1/
S42.9.1
 
塩川町 しおがわまち加賀藩士、塩川氏の屋敷があったところなので、この名がつけられた。地子町の一つ長町2丁目、
中央通町
S40.9.1 
塩屋町 しおやまち町名の由来は、能登塩を扱う塩問屋があったことによる。藩政初期には、大手門付近にあったが、寛永年間(1624〜44年[)に現在地に移転したという。本町の一つ瓢箪町S40.9.1 
品川町 しながわまち加賀藩士品川氏の邸地があったところなので、この名がつけられた。地子町の一つ天神町2丁目S41.2.1 
島田町 しまだまち藩政の初期から元禄のころまで当地に島田勘兵衛の屋敷があったが、その後邸地を返上、島田勘兵衛上地町と呼ばれ、享保の町絵図では島田町と記されている本町2丁目、
昭和町
S40.9.1 
下安藤町 しもあんどうまち藩政時代、鉄砲組の足軽頭、安藤長左衛門の組地があったので、この名がついたという。明治3年、上・中・下の3つの安藤町に分立した石引1丁目・3丁目、宝町S39.4.1 
下石伐町 しもいしきりまち戸室山から石を伐り出す藩の石伐職人二十人の組地があったことによる。延宝年間(1673〜81)に上、下石伐町に分立した。地子町の一つ清川町S39.4.1 
下石引町 しもいしびきまち藩政の初め、金沢城の石垣を築くため、戸室山から切り出した戸室石を引いて運んだ道筋であったので、この名がついたという。上・中・下石引町があった。いしびきちょうとも呼ばれた石引3・4丁目S39.4.1H12.4.1 復活
下小川町 しもおがわちょう藩政時代は、川(河)端町、西養寺町前、誓願寺前、玄門寺前などのまちであったが、小川に沿ったまちなので、明治4年、上・下小川町に改められた東山2丁目S41.9.1 
下小柳町 しもおやなぎまち町名はかつてこの辺りが荒地であった頃、柳の木があったことによるといわれているが、不詳。文政6年(1823年)、上・下小柳町に分立。地子町の一つ野町2丁目S42.9.1 
下欠原町 しもがけはらまち崖縁の通りであるため、藩政時代は笠舞がけ原、がけ片原などと呼ばれていたが、のち、略してこの名がついた。明治4年、上・中・下欠原町となった。地子町の一つ本多町3丁目S39.4.1 
下胡桃町 しもくるみちょうこの地の東惣構堀にかかる橋を、橋詰の染師黒梅屋の名によって黒梅橋といったが、俗にくるみ橋と呼んだことから、明治4年この名で町立てされた大手町S41.2.1 
下高儀町 しもこうぎまちもと寺地などであったが、藩政前期に藩用地とし藩士の屋敷などを置いたので、公儀町と呼ばれ、文政6年(1823年)、公儀の文字をはばかり、この名に改められたという長土塀2・3丁目S40.9.1 
下主馬町 しもしゅめまち藩政時代、鉄砲頭をしていた本庄主馬の邸地があったので、主馬殿町と呼ばれ、明治4年、町名となった菊川2丁目、幸町S39.4.1 
下新町 しもしんちょう藩政初期からの町名で、尾張町に家屋が増え、町地が狭くなったので、新しく町立てされたため、新町の名がついた。明治4年、上・下の2町に分町した尾張町2丁目S45.6.1 
下傳馬町 しもてんままち藩政時代、藩用の人や荷物を運ぶために六十六匹の伝馬が置かれたことからこの名がついた。伝馬・馬借の居住地があり、厩舎があったことによる。伝馬町は、上・下・後・横伝馬町が伝馬町であった。藩初は橋場町付近に置かれていたという中央通町S40.9.1 
下百々女木町 しもどどめきまち藩政時代、木曽谷に注ぎ込む川の流れが急で、高い音をたてていたところから、ここに架けられた橋をどどめき橋と呼び、この名が町名になったという。明治5年、宝円寺町を改称して下百々女木町となった宝町S39.4.1 
下中島町 しもなかじままち中島町の町名は、当地がかつて浅野川の中洲であったことによる。地子町の一つ。明治4年、上・下中島町となる昌永町、京町S41.9.1 
下弓ノ町 しもゆみのまち天和のころから足軽弓組の組地で、如来寺組、経王寺組と射場があり、小立野弓ノ町と呼ばれた。明治5年、如来寺組は上弓ノ町、経王寺組は中弓ノ町に、また、横山同心組の組地は下弓ノ町となった小立野5丁目S39.4.1 
主馬町広丁 しゅめまちひろちょう藩政時代、鉄砲頭をしていた本庄主馬の邸地があったので、主馬殿町と呼ばれ、明治4年、この名がついた菊川2丁目S39.4.1 
白山町 しらやまちょう藩政時代、波着寺門前と呼ばれていたが、波着寺の山号が白山であるところから、明治4年、この名に改められた石引2丁目S39.4.1 
白銀町 しろがねちょう藩政初期は安江村であった。町地が広がったため安江木町となり、その一角に白銀細工師がいたため町名になったという。地子町の一つ本町1・2丁目、
玉川町、武蔵町
S40.9.1/
S45.6.1
 
新川除町 しんかわよけまち寛政7年(1795年)、川除町のうち、宝久寺辺りから大豆田の町端までを犀川川除町とした。明治からは、新川除町と称した。地子町の一つ中央通町、
長土塀3丁目
S40.9.1 
新坂町 しんさかまち.小立野台地から犀川方面へ降りる坂はいくつもあるが、嫁坂の次に開かれたので、新坂という。地子町の一つ石引2・4丁目、
本多町1丁目
S39.4.1 
新竪町一丁目 しんたてまちいっちょうめ竪町の後に成立し、竪町に続く通りであったことによる。元和2年(1616年)頃、埋立てて町をつくったので、竪河原町と称した。寛文12年(1672年)には新立町、享保の頃には上竪町と呼んだ。文政6年(1823年)、一丁目から三丁目に分立した菊川2丁目、幸町S39.4.1 
新竪町二丁目 しんたてまちにちょうめ幸町S39.4.1 
新長柄町 しんながえまち藩政のころ、参勤交代のときなどに長柄の槍を持つ人達が住んでいたので、この名がついた。長柄町の北に接して町立てした菊川1・2丁目S39.4.1 
助九郎町 すけくろうまち藩政時代、本間助九郎または葛巻助九郎の邸地があったので、この名がついたという。地子町の一つ野町2丁目S42.9.1 
仙石町 せんごくまち千石町とも書いた。藩政初期からの町名であるが、その由来は明らかではない。地子町の一つ香林坊1丁目、
広坂2丁目、尾山町
S41.2.1 
仙人町 せんにんまち明治3年の町立て、町名の由来は不詳だが「こんな荒れたところに住むのは仙人しか居ないから仙人町としたらいい」と命名されてという。千人町とも書いた清川町S39.4.1 
象眼町 ぞうがねまち藩政時代、地子町の一つで、象嵌師が住んでいたことからこの名がついた。「ずがねまち」とも「ぞうがんまち」ともいった笠市町、安江町S40.9.1 
宗叔町二番丁 そうしゅくちょうにばんちょう元禄のころ堀宗叔という医師が住んでいたのでこの名がついた。堀家は代々藩医をつとめていた。一番丁から五番丁まであった。地子町の一つ玉川町、芳斉1丁目S40.9.1 
宗叔町三番丁 そうしゅくちょうさんばんちょう玉川町、
芳斉1・2丁目
S40.9.1 
宗叔町四番丁 そうしゅくちょうよんばんちょう玉川町、芳斉2丁目S40.9.1 
宗叔町五番丁 そうしゅくまちごばんちょう玉川町S40.9.1 

お問い合わせ先

市民局 市民協働推進課
電話番号:076-220-2026
FAX番号:076-260-1178
kyoudou@city.kanazawa.lg.jp

より良いウェブサイトにするために、このページのご感想をお聞かせください。