1868年、明治時代をむかえました。政治(せいじ)はそれまでの幕府(ばくふ)が中心の幕藩体制(ばくはんたいせい)から、明治の新しい政府による、中央集権体制(ちゅうおうしゅうけんたいせい)に変わっていきました。この流れを明治維新(いしん)といいます。
廃藩置県(はいはんちけん)という制度(せいど)のため、大名がいなくなったので、武士(ぶし)に給料をはらう人がいなくなりました。そのため、思想的にも経済的(けいざいてき)にも政府に不満を感じる士族(もとの武士)が、金沢にもたくさんいました。
そんな士族を中心に、明治政府に対抗(たいこう)する政治結社(せいじけっしゃ)というグループが作られていきました。しかし、その活動内容(ないよう)の本当のところは、士族を助けるための仕事の紹介(しょうかい)が中心でした。士族はずっと、苦しい生活を送らなくてはなりませんでした。
武力で明治政府に対抗(たいこう)しようとする動きもありましたが、1878年(明治11年)東京で起きた紀尾井町事件(きおいちょうじけん)を最後に、演説(えんぜつ)などによる自由民権(みんけん)運動へと変わっていきました。
文明開化(ぶんめいかいか)の波を受け、金沢にも新聞、写真、人力車、洋服、散髪(さんぱつ)などが登場しました。加賀藩(かがはん)の時代から学問や芸術(げいじゅつ)がさかんだったので、明治時代から後も文化面ではすぐれた人がたくさんでました。室生犀星(むろうさいせい)、泉鏡花(いずみきょうか)、徳田秋声(とくだしゅうせい)は、金沢が生んだ有名な三文豪(さんぶんごう)です。
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