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歴史金沢らしさ

戦国時代

織田信長(おだのぶなが)につかえて、数々の手がらをたてた前田利家は、1575年(天正(てんしょう)3年)大名になりました。1583年(天正11年)金沢城(かなざわじょう)の城主になり、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の政権下(せいけんか)では、徳川家康(とくがわいえやす)とならんで、天下統一(とういつ)を進めるうえで、大きな役割(やくわり)を果たしました。

利家の金沢城入城が、今の6月だったことから、毎年6月半ばに利家の勇ましい姿(すがた)を伝える「百万石パレード」が行われています。

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江戸(えど)時代

1599年(慶長(けいちょう)4年)前田利家がなくなると、豊臣政権(せいけん)をささえるために大坂にいた、2代藩主(はんしゅ)の利長(としなが)は金沢へもどりました。豊臣家の力がおとろえ始めると、徳川家康が、政治(せいじ)の実権(じっけん)をにぎるようになりました。家康に対する、利長の謀反(むほん)の噂(うわさ)が流れましたが、うらぎりの気持ちがないことを表すために、自分の母親、芳春院(ほうしゅんいん)(まつ)を江戸(えど)へ人質(ひとじち)として出すことにしました。

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1600年(慶長5年)利長は、関ヶ原(せきがはら)の戦いで家康の味方につき、領地(りょうち)を取り上げられずにすみました。しかし、謀反の噂はなくなりませんでした。そこで、徳川方の大名として生きていくことをはっきりさせるために、利長のあとつぎと決められていた利常(としつね)と2代将軍(しょうぐん)徳川秀忠(ひでただ)の次女珠姫(たまひめ)(当時3歳(さい))が結婚(けっこん)することになりました。

1605年(慶長10年)利長は、弟の利常にあとをつがせて隠居(いんきょ)しました。3代藩主利常は、加賀(かが)、能登(のと)、越中(えっちゅう)の3か国を治める大名になりました。

利常は、幕府(ばくふ)との友好関係を作り、前田家をつぶさないように努力しました。また、文化・工芸政策(せいさく)にも力を入れました。これが加賀百万石といわれる時代のもとになり、引きつがれていきました。


また、利常は、4代藩主光高(みつたか)が急になくなった後5代藩主になった綱紀(つなのり)のささえとして政治を行いました。利常がなくなると、綱紀は利常の意思をついで、文化・工芸政策に力を入れました。 まえだとしつね画像

1867年(慶応(けいおう)3年)、15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は、大政奉還(たいせいほうかん)して、政権を朝廷(ちょうてい)にかえしました。朝廷は政権だけでなく、領土(りょうど)をかえすことも求めて、旧(きゅう)幕府軍との間に鳥羽・伏見(とば・ふしみ)の戦いを起こしました。

この戦いで、旧幕府軍が敗れると、それまで幕府側の味方だった14代藩主前田慶寧(よしやす)は朝廷側の味方になりました。このようにはっきりとした立場を取らなかったため、加賀藩は明治維新(いしん)という、新しい時代の波に乗りおくれました。そのため、加賀藩出身者は政治の中心で活躍(かつやく)することができませんでした。

しかし、工芸と教育に関しては、力を注いでいったために、文学・思想・学問の世界でたくさんの有名な人が活躍しました。