
古くから栄えた茶の湯の文化は、金沢に和菓子の発展をもたらしました。
その和菓子は、いつしか庶民の生活に浸透し、四季折々の場面や人生の節目になくてはならないものとなっています。味はもちろんのこと、見た目にも楽しませてくれる和菓子の数々。そこには、伝統的な職人の卓越した技と、この地ならではの美意識、そして、もてなしの心が集結しており、金沢が誇る食文化の代表的な一つとなっています。
茶道文化が生んだ和菓子
京都や島根県の松江と並んで、金沢は全国的にも知られている和菓子どころです。その三つの土地に共通しているのは、いずれも、古くから茶の湯の文化が発達していた場所だということです。
金沢は、藩祖利家から始まる歴代の藩主が茶の湯に大きな関心を持っていました。利家や二代藩主の利長は千利休の直弟子であり、三代藩主の利常も江戸初期の大茶名人である小堀遠州や金森宗和、仙叟千宗室(せんそうせんのそうしつ)に学んでいました。五代藩主の綱紀は、仙叟千宗室を茶道茶具奉行とし、藩を挙げて茶の湯を奨励していたほどです。このため、茶の湯に欠かせない菓子の需要が増え、技術が向上していきました。
金沢和菓子の発祥

五色生菓子
実際、金沢の菓子作りがいつから始まったのかということについては、さまざまな説があります。最も古いものは、1590年(天正18年)、利家が入府した際に遡ります。その頃は、城の周囲に菓子屋はありませんでした。そこで、当時の御用菓子処だった堂後屋三郎衛門が、片町に1600坪の邸宅を拝領し、餅菓子店を始めたという説が、金沢和菓子の元祖と言われています。また、利長の時代に、藩の御用菓子師だった樫田吉蔵が五色生菓子を考案し、1600年(慶長5年)、珠姫(天徳院)が金沢へお輿入れする際、五色生菓子を収めたのがルーツであるという説もあり、さらに、1630年(寛永7年)頃、利常が越中井波から菓子師を呼び、香林坊で加賀落雁を作らせたのが始まりともされています。1625年(寛永2年)、尾張町で創業した森下屋八左衛門が利常の創意により、小堀遠州の書いた「長生殿」という文字を墨型の落雁にして創製したことが最初であるとも考えられています。長生殿は現在でも作られており、金沢を代表する和菓子の一つです。
長生殿とは

長生殿
長生殿は、日本三名菓といわれ、献上菓子として使われた由緒ある干菓子。表には、小堀遠州の篆書体による「長生殿」という文字が打ち出されており、歴代の藩主に愛好された。

寺町
一般庶民への浸透

加賀藩が力を入れた茶道の影響で栄えた和菓子の文化は、次第に一般庶民へと広まり、金沢の地に独特の菓子文化が根付いていきました。市民にも和菓子が浸透していった要因は、真宗王国といわれる信仰心の厚い土地柄が挙げられます。宗教行事とともに、和菓子は庶民にも欠かせないものとなっていきました。

茶室
金沢では昔から、報恩講の際に落雁や餅、饅頭、最中が盛大に供えられました。それらは仏事の後、参加者に分け与えられ、門徒の楽しみともなっていました。また、法事や僧侶の月参りでも和菓子は必需品であり、参詣日にはお寺が参詣客のために茶菓子を用意します。門徒と寺院の間で行われる行事には必ずと言っていいほど和菓子が登場するわけです。茶の湯は和菓子を洗練した芸術として質を高めていき、仏事による和菓子の必要性は、広く大衆的な和菓子の普及を促していったのです。

このため、金沢では、季節や人生の節目に和菓子を用います。彼岸のおはぎや、お祝いの際の紅白饅頭はもちろん、正月の福梅や辻占、桃の節句の金花糖、夏の氷室饅頭、七月の土用に食べるささげ餅など、庶民生活と和菓子は密着したものとなっていきました。また、安産を願うころころ団子、赤ちゃんの誕生を祝う杵巻きや巾着餅、婚礼の際の五色生菓子など、いわゆる縁起菓子が数多く存在しています。寺社菓子、縁起菓子、祝い菓子、四季折々の菓子は、いまでも暮らしの中に生きており、市民生活のコミュニケーションを担う役割も果たしています。
和菓子メニュー