立野家住宅主屋・土蔵

有形文化財 建造物
立野家住宅主屋・土蔵(たてのけじゅうたくおもや・どぞう)

立野家住宅主屋・土蔵の詳細
所在地 金沢市大工町37
市指定文化財 平成15年9月11日指定

立野家住宅は、寛永8年(1631年)の大火のあと拝領地を受けた藩の大工衆がかつて住んでいた大工町の一角に残る町家の遺構です。立野家は畳店で現当主で7代目に当たり、明治初期にこの建物を購入しました。建築年代は不明ですが、1階平面の原形から建物後部に座敷が無かったことが明らかに確認できることから、19世紀初期は下らないものと推定されます。
表構えは軒高が低く、2階の壁面は白漆喰壁で両脇に袖卯建が付き、窓には古格子が付きます。1階ひさし下にはサガリが付き、表構え中央の三間にわたって蔀戸が入ります。正面右から一間は出格子に改造されていましたが、平成9年(1997年)に建築当時の簾虫籠に復原されました。
立野家では現在もミセで作業が行われていますが、日中は竪格子戸に唐紙を張った連子(れんじ)格子戸を中央の三間の下半分に使用しています。このような連子格子戸の使用は、江戸時代後期の金沢城下を描いた「金沢城下図屏風」の中で、犀川縁の職人住居を描いた部分に見ることができます。
屋根は、昭和7年(1932年)に板葺石置屋根から瓦葺き(四寸五分勾配)の屋根に変更されています。なお、現在も小屋裏には板葺当時の小屋組(二寸九分勾配)の遺構がそのまま残されており、軒先には従前風返しが付いていました。
1階平面は、建物前面から土間のトオリニワにそってミセ、チャノマその奥にナガシ、ドゾウが続きます。後庭のセド(中庭)に面してザシキが取られ、ザシキから建物前面方向にナカノマ、ミセノマが続く構成となっています。なお、建物前面から奥行2間の範囲は、1、2階とも虫害と老朽化のため平成9年(1997年)に建て替えが行われています。工事は復原を基本として行われ、既存部材を調査してできる限り同寸の新材で建築されましたが、柱と梁の一部については、耐震上やむを得ず従前より寸法が大きい部材が使用されました。また、前述の正面簾虫籠は、この工事の際に小屋裏から発見されたものです。
チャノマの土間側半分と土間上部は吹き抜けで、キの字形に梁組が渡ります。吹き抜け上部には高窓が付き、開閉のための紐を通した金具が柱に残っています。土間に面して従前は広さ1畳の囲炉裏がありましたが、昭和36年に撤去されました。囲炉裏跡の上部には自在鈎を掛けた丸太が残ります。また、土間から2階前部のアマに上がるための階段がありましたが、昭和7年(1932年)に取り外され、同時にアマの開口部も板で塞がれています。チャノマの造作材には黒漆が塗られており、一角に弁柄塗りの箱階段が付きます。ザシキは昭和7年に建て替えられたもので、以前は四畳半の茶室がありました。また、同時期に2階のザシキも増築されています。ザシキには1間幅の床と平書院が付きます。茶室当時の網代天井は隣接する三畳間の天井に転用されています。ナガシ部分はセドに面した片流れ屋根の下屋で、土間に簀の子板を並べて使用されています。石造の流し台やカマド、現在は水が枯れている井戸が現在も残ります。便所は水洗化に伴い改修されていますが、間仕切の形態は従前のかたちを残し、浴室は平成7年(1995年)に改修されています。
2階前部は4畳間とアマが並びます。4畳間上部は登梁が渡るため天井高が低く本来はアマの部分ですが、所有者の記憶によれば従前から天井が張られており、居室の一部とされていました。マエニカイは8畳和室で1間幅の床が付き、天井は棹縁天井です。柱等の部材状況から建築当時からの居室とみられ、1階にザシキができるまでは、格式空間としての機能を有していたと考えられます。2階後部のザシキは1階ザシキとともに建築されたもので、床面は1階ザシキの天井高を確保するために、マエニカイの床面より高い位置となっています。
土蔵は下屋部分のナガシを介して主屋と繋がります。入口の引き戸内側に家紋を描いた障子戸が入り、内部は2層で側桁階段が付いていますが、階段は昭和10年代に向きが変えられており、同時に2階床の補修が行われています。軸組や土塗壁などが建築当時の旧態をとどめています。
このように、立野家住宅主屋及び土蔵は金沢の旧市街地に現在も住まいとして使用され、かつ江戸時代後期の町家の古い意匠と構造を示す稀少な遺構として極めて貴重な建造物です。

2階は白い壁、窓には格子戸が付いており、1階正面真ん中は連子格子戸が下半分あり、右側には簾虫籠が設置されている立野家住宅主屋の外観写真

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