野田山・加賀藩主前田家墓所
重点事業
野田山・加賀藩主前田家墓所(のだやま・かがはんしゅまえだけぼしょ)の調査
野田山・加賀藩主前田家墓所
金沢市では、野田山・加賀藩主前田家墓所において、平成16年度から測量・文献史料・民俗・石造物などの調査を実施しました。平成18年度には初めて前田家墓所内での発掘調査を行い、築造当初の堀の規模などを確認することができました。平成20年3月には調査成果をまとめた報告書を刊行しました。
平成21年2月12日、野田山の加賀藩主前田家墓所は、富山県高岡市の前田利長墓所とともに国史跡として指定されました。
野田山墓地とは
藩祖前田利家墓
野田山墓地は、金沢城から直線距離にして南西に約3.5キロメートルほど離れたところに広がる一大霊園地です。野田山は標高約175メートルを測り、その山頂から山腹に広がる墓地の総面積は43万平方メートルで、兼六園の約4倍の広さがあります。
野田山墓地の歴史
伝前田利久墓前の堀の発掘風景
藩祖前田利家(まえだとしいえ)の実兄利久((としひさ)がこの地の山頂近くに葬られたのが、野田山墓地の始まりとされています。利家以降、歴代藩主とその正室(せいしつ)のほんんどは野田山に葬られました。前田家墓所の周囲には家臣の墓が造られ、のちには町人の墓も立ち並ぶようになり、現在の野田山墓地へと続いています。
明治維新を迎えると野田山墓地の管理は金沢市に引き継がれますが、現在は加賀藩主前田家墓所は成巽閣(せいそんかく)が、戦没者墓地は石川県が管理をしています。
野田山・加賀藩主前田家墓所
測量図
野田山墓地の最も標高の高い一角に、江戸時代の加賀藩主前田家の歴代当主をはじめその正室、子女などの近親者たちが眠る前田家墓所があります。
前田家の墓はいずれも土を高く盛り上げた土饅頭(どまんじゅう)形式で、特に藩主とその正室の墓は四角形の土檀(どだん)を階段状に重ねた特徴的な外観をしており、一見すると古墳時代の方墳によく似たものとなっています。墓の周囲には溝を廻らせて外界と墓域を区画しており、大きさも、利家墓で一辺約19メートル、他の藩主墓でも一辺約16メートルと、他藩では類を見ない大規模なものとなっています。
現在、野田山・加賀藩主前田家墓所の面積は約8.6ヘクタールを測り、墓域内には約80基の墓が建てられています。藩祖前田利家の墓は前田家墓所内の最も標高の高い一角に築かれており、そのすぐ横には利家の正室・まつの墓が、さらにその横には利家とまつの長男で加賀藩前田家2代利長(としなが)の墓が位置しています。
代々の加賀藩主の多くは野田山の前田家墓所に葬られました。4代藩主光高(みつたか)と9代藩主重靖(しげのぶ)は金沢市内の天徳院に葬られましたが、昭和20年代に天徳院から野田山へと改葬され、現在、全ての加賀藩主の墓を野田山の前田家墓所でみることができます。
野田山墓地の墓守(はかもり)と墓参
野田山参拝風景
野田山の近郊に住む人びとに墓地の管理を依頼するということが行われてきました。そういった家は代々墓守として墓地の清掃や管理を行い、墓地の管理費を生計の一助としてきました。この墓守制度は野田山墓地の特徴として約400年の歴史があるといわれています。
お盆やお彼岸の時期になると、野田山墓地には多くの墓参の人びとが訪れ、木枠に紙を貼ったキリコと呼ばれる灯籠を墓前に捧げます。このキリコを吊す風習は金沢独自のもので、正面には「南無阿弥陀仏」と六字名号(ろくじみょうごう)が書かれており、側面には、「献上」または「献灯」に続いて墓参した人物の名前を書き入れることになっています。