旧町名復活・あ行

あ行一覧
旧町名 よみがな 由来 現在の町名 住居表示の実施 備考
揚地町 あげちまち 藩政時代、寺院か藩士が拝領した邸地を返納した土地を上地という。この所は、誰が上地したのか不明であるが、藩政記から、揚地町と呼んだ 石引2丁目、
笠舞3丁目
昭和39年4月1日 なし
浅野川上川除町 あさのがわ
かみかわよけまち
浅野川上流の川除け(堤防)が町地となったことからの命名であり、藩政期からの町名である 桜町、横山町、
材木町
昭和41年2月1日 なし
芦中町 あしなかまち 藩政時代からの町名「足半町といふは並び短く、尻切れたる町なり」と伝えられ、はじめは足中町とも書く。のち芦中町と書いた 弥生1丁目、
泉1・2丁目
昭和42年9月1日 なし
愛宕一番丁 あたごいちばんちょう 佐久間盛政が金沢城に在城の頃、現広坂の上にあった愛宕社を前田利長の命で、宝泉坊の隣地に移し、卯辰愛宕社と称したことによる。弘化3年(1846年)から愛宕一番丁から三番丁となった 東山1丁目 昭和41年9月1日 なし
愛宕二番丁 あたごにばんちょう 佐久間盛政が金沢城に在城の頃、現広坂の上にあった愛宕社を前田利長の命で、宝泉坊の隣地に移し、卯辰愛宕社と称したことによる。弘化3年(1846年)から愛宕一番丁から三番丁となった 東山1丁目 昭和41年9月1日 なし
愛宕三番丁 あたごさんばんちょう 佐久間盛政が金沢城に在城の頃、現広坂の上にあった愛宕社を前田利長の命で、宝泉坊の隣地に移し、卯辰愛宕社と称したことによる。弘化3年(1846年)から愛宕一番丁から三番丁となった 東山1丁目 昭和41年9月1日 なし
愛宕四番丁 あたごよんばんちょう 佐久間盛政が金沢城に在城の頃、現広坂の上にあった愛宕社を前田利長の命で、宝泉坊の隣地に移し、卯辰愛宕社と称したことによる。弘化3年(1846年)から愛宕一番丁から三番丁となった。慶応3年(1867年)愛宕一番丁から三番丁が、卯辰京町・中ノ町・老松町・宮川町となり、明治5年宮川町が愛宕四番丁となった 東山1丁目 昭和41年9月1日 なし
穴水町一番丁 あなみずまちいちばんちょう 加賀藩老臣、長氏の上級家臣らが住み、上家中町と呼ばれたが、長氏の祖先が能登の穴水城に居たことにちなみ、明治になって、この名がつけられた 長町3丁目、
長土塀1丁目
昭和40年9月1日 なし
穴水町二番丁 あなみずまちにばんちょう 加賀藩老臣、長氏の上級家臣らが住み、上家中町と呼ばれたが、長氏の祖先が能登の穴水城に居たことにちなみ、明治になって、この名がつけられた 長土塀1丁目 昭和40年9月1日 なし
穴水町三番丁 あなみずまちさんばんちょう 加賀藩老臣、長氏の上級家臣らが住み、上家中町と呼ばれたが、長氏の祖先が能登の穴水城に居たことにちなみ、明治になって、この名がつけられた 長土塀1丁目、
芳斉1丁目
昭和40年9月1日 なし
穴水町四番丁 あなみずまちよんばんちょう 加賀藩老臣、長氏の上級家臣らが住み、上家中町と呼ばれたが、長氏の祖先が能登の穴水城に居たことにちなみ、明治になって、この名がつけられた 長土塀1丁目、
芳斉1丁目
昭和40年9月1日 なし
穴水町五番丁 あなみずまちごばんちょう 加賀藩老臣、長氏の上級家臣らが住み、上家中町と呼ばれたが、長氏の祖先が能登の穴水城に居たことにちなみ、明治になって、この名がつけられた 芳斉1丁目 昭和40年9月1日 なし
荒町一丁目 あらまちいっちょうめ 寛永年間には木ノ新保新町と呼ばれ、新しくできたのでこの名がついたといわれる。元禄の頃には荒町となっているが、荒町は新町の意であろう 本町1丁目 昭和40年9月1日 なし
荒町二丁目 あらまちにちょうめ 寛永年間には木ノ新保新町と呼ばれ、新しくできたのでこの名がついたといわれる。元禄の頃には荒町となっているが、荒町は新町の意であろう 本町1丁目、
此花町
昭和40年9月1日 なし
荒町三丁目 あらまちさんちょうめ 寛永年間には木ノ新保新町と呼ばれ、新しくできたのでこの名がついたといわれる。元禄の頃には荒町となっているが、荒町は新町の意であろう 此花町、堀川町 昭和40年9月1日 なし
石浦新町 いしうらしんまち もと石川郡石浦村であったが、寛文5年(1665年)頃、町地となりこの名がつけられた。城下町の本町の一つに数えられた。香林坊近くの石浦町と区別するため、この名で呼ばれた。地子町の一つ 菊川2丁目 昭和39年4月1日 なし
石浦町 いしうらまち もと石川郡石浦村であったが、元和元年(1615年)、前田利常の文書に見られる町名。本町の一つに数えられた 香林坊2丁目、
片町1丁目、
香林坊1丁目
昭和40年9月1日/
昭和41年2月1日
なし
石屋小路 いしやしょうじ もと安江町横町と呼ばれていた。藩政初期、藩の御用を勤める石工たちが住んでいたところから、この名がついた。明治4年からの町名 武蔵町 昭和45年6月1日 なし
板前町 いたまえまち 藩政の始めころ、藩の台所奉行に属する板前、足軽組地であったので、この名がついたといわれる 天神町2丁目 昭和41年2月1日 なし
藺田町 いだまち 「いいだまち」ともいう。藩政時代、この地が藺田(いぐさの田)であったことによるという。地子町の一つ 長土塀2・3丁目、元菊町 昭和40年9月1日/
昭和41年9月1日
なし
石坂角場一番丁 いっさか
かくばいちばんちょう
もと石坂村の村地であった。藩政時代、鉄砲の射的場を「角場」と呼んだことから、この町名になった。明治4年から一番丁から十二番丁まで区画された。中心部に近い所から一番丁、二番丁といった 野町2丁目 昭和42年9月1日 なし
石坂角場二番丁 いっさか
かくばにばんちょう
もと石坂村の村地であった。藩政時代、鉄砲の射的場を「角場」と呼んだことから、この町名になった。明治4年から一番丁から十二番丁まで区画された。中心部に近い所から一番丁、二番丁といった 野町2丁目 昭和42年9月1日 なし
石坂角場三番丁 いっさか
かくばさんばんちょう
もと石坂村の村地であった。藩政時代、鉄砲の射的場を「角場」と呼んだことから、この町名になった。明治4年から一番丁から十二番丁まで区画された。中心部に近い所から一番丁、二番丁といった 野町2丁目 昭和42年9月1日 なし
石坂角場四番丁 いっさか
かくばよんばんちょう
もと石坂村の村地であった。藩政時代、鉄砲の射的場を「角場」と呼んだことから、この町名になった。明治4年から一番丁から十二番丁まで区画された。中心部に近い所から一番丁、二番丁といった 野町2丁目 昭和42年9月1日 なし
石坂角場五番丁 いっさか
かくばごばんちょう
もと石坂村の村地であった。藩政時代、鉄砲の射的場を「角場」と呼んだことから、この町名になった。明治4年から一番丁から十二番丁まで区画された。中心部に近い所から一番丁、二番丁といった 野町2丁目 昭和42年9月1日 なし
石坂角場六番丁 いっさか
かくばろくばんちょう
もと石坂村の村地であった。藩政時代、鉄砲の射的場を「角場」と呼んだことから、この町名になった。明治4年から一番丁から十二番丁まで区画された。中心部に近い所から一番丁、二番丁といった 野町2・4丁目 昭和42年9月1日 なし
石坂角場七番丁 いっさか
かくばななばんちょう
もと石坂村の村地であった。藩政時代、鉄砲の射的場を「角場」と呼んだことから、この町名になった。明治4年から一番丁から十二番丁まで区画された。中心部に近い所から一番丁、二番丁といった 野町4・5丁目 昭和42年9月1日 なし
石坂角場八番丁 いっさか
かくばはちばんちょう
もと石坂村の村地であった。藩政時代、鉄砲の射的場を「角場」と呼んだことから、この町名になった。明治4年から一番丁から十二番丁まで区画された。中心部に近い所から一番丁、二番丁といった 野町4・5丁目 昭和42年9月1日 なし
石坂角場九番丁 いっさか
かくばきゅうばんちょう
もと石坂村の村地であった。藩政時代、鉄砲の射的場を「角場」と呼んだことから、この町名になった。明治4年から一番丁から十二番丁まで区画された。中心部に近い所から一番丁、二番丁といった 野町4丁目 昭和42年9月1日 なし
石坂角場十番丁 いっさか
かくばじゅうばんちょう
もと石坂村の村地であった。藩政時代、鉄砲の射的場を「角場」と呼んだことから、この町名になった。明治4年から一番丁から十二番丁まで区画された。中心部に近い所から一番丁、二番丁といった 野町4丁目 昭和42年9月1日 なし
石坂角場十一番丁 いっさか
かくばじゅういちばんちょう
もと石坂村の村地であった。藩政時代、鉄砲の射的場を「角場」と呼んだことから、この町名になった。明治4年から一番丁から十二番丁まで区画された。中心部に近い所から一番丁、二番丁といった 泉1丁目、
野町4丁目
昭和42年9月1日 なし
石坂角場十二番丁 いっさかかくばじゅうにばんちょう もと石坂村の村地であった。藩政時代、鉄砲の射的場を「角場」と呼んだことから、この町名になった。明治4年から一番丁から十二番丁まで区画された。中心部に近い所から一番丁、二番丁といった 泉1丁目 昭和42年9月1日 なし
石坂川岸一の小路 いっさか
かわぎしいちのしょうじ
町名は野町と石坂村の境である泉用水沿いにあることから、石坂川岸町となり、明治32年、石坂川岸一の小路、二の小路となる 増泉1丁目 昭和42年9月1日 なし
石坂川岸二の小路 いっさか
かわぎしにのしょうじ
町名は野町と石坂村の境である泉用水沿いにあることから、石坂川岸町となり、明治32年、石坂川岸一の小路、二の小路となる 増泉1丁目 昭和42年9月1日 なし
石坂川岸町 いっさか
かわぎしまち
町名は野町と石坂村の境である泉用水沿いにあることから、石坂川岸町となり、明治32年、石坂川岸一の小路、二の小路となる 増泉1丁目、白菊町 昭和42年9月1日/
昭和44年2月1日
なし
石坂町 いっさかまち もと石坂村の村地に町家ができたことから、この名がついた。元禄9年(1696年)には、すでに町名が記載されている 野町2丁目 昭和42年9月1日 なし
石坂与力町 いっさかよりきまち 寛文7年(1667年)、城下に居住していた与力たちを小立野及び泉に指定した与力組地へ移転した。泉の与力組地が、当町名となった 野町2・4丁目、
泉1丁目
昭和42年9月1日 なし
一本松 いっぽんまつ もと笠舞一本松、小立野一本松とも呼ばれていた。片側町で、一方町といっていたのが、誤って一本松になったともいわれる。地子町の一つ 笠舞3丁目、
石引2丁目
昭和39年4月1日 なし
井波町 いなみまち 慶応2年(1649年)、越中井波の真宗大谷派瑞泉寺の掛所がこの地に建てられたことによる。文政6年(1823年)から大衆免を冠称している。地子町の一つ 森山1丁目 昭和41年9月1日 なし
岩根町 いわねまち 藩政初期、馬術の名人岩根十蔵が開いた馬場があったので岩根馬場と呼ばれたいたが、中期ころこの名がついたという。地子町の一つ 彦三町1丁目、
瓢箪町、笠市町
昭和40年9月1日 なし
上田町 うえだまち 文政6年(1823年)、山の上町から分立したもので、かつてこの辺りが用水の上方にある田地であったことからこの名がついた。地子町の一つ 森山2丁目 昭和41年9月1日 なし
上野町 うえのまち もと石川郡上野村の村地で、馬や牛が通る坂の上の野であったことからこの名がついたといわれ、文政4年に町地に加えられた。地子町の一つ 小立野3丁目 昭和39年4月1日 なし
卯辰下町 うたつしたまち 卯辰山は、河北郡小坂荘の中心部から卯辰(東南東)の方向に位置することからの命名であろう。卯辰山の麓近くにあったことから、この名がついた。地子町の一つ 東山2丁目 昭和41年9月1日 なし
卯辰高町 うたつたかまち 卯辰山は、河北郡小坂荘の中心部から卯辰(東南東)の方向に位置することからの命名であろう。卯辰下町より高い所にあったことから、この名がついた。地子町の一つ 東山2丁目 昭和41年9月1日 なし
梅鉢清水 うめばちしみず 地内に梅鉢草という海草が生い茂っている清水があったことによる。もとは、大豆田村のうちで、明治4年からの町名 長土塀3丁目 昭和40年9月1日 なし
梅本町 うめもとちょう 明治2年、加賀藩の老臣一万八千五百石前田孝敬の邸地を東西に二分して作られた町で、その家紋「角の内梅輪」にちなんで、この名がついたという 大手町 昭和41年2月1日 なし
梅本町西横丁 うめもとちょうにしよこちょう 明治2年、加賀藩の老臣一万八千五百石前田孝敬の邸地を東西に二分して作られた町で、その家紋「角の内梅輪」にちなんで、この名がついたという 大手町 昭和41年2月1日 なし
梅本町東横丁 うめもとちょうひがしよこちょう 明治2年、加賀藩の老臣一万八千五百石前田孝敬の邸地を東西に二分して作られた町で、その家紋「角の内梅輪」にちなんで、この名がついたという 大手町 昭和41年2月1日 なし
裏御小人町 うらおこびとまち 藩政時代、藩主の行列の際にその身のまわり品の茶弁当、矢箱、提灯などを運ぶ御小人の組地の裏手にあったので、この名がついた。地子町の一つ 扇町 昭和41年2月1日 なし
裏金屋町 うらかなや
まち
もと今の尾山神社の地あたりにあった。藩の初め、銀座役金屋彦四郎らが居住し、金銀貨を鋳造していたのでこの名がつけられ、元和の初め、この地に移されたという。金谷町とも書いた。地子町の一つ 東山2丁目 昭和41年9月1日 なし
裏五十人町 うらごじゅうにんまち 藩政前期、加賀藩士小幡宮内の下屋敷があったが、のち、足軽五十人が住んだので、この名がついた 中村町、増泉1丁目、白菊町 昭和42年9月1日/
昭和44年2月1日
なし
裏傳馬町 うらてんま
まち
藩政時代、藩用の人や荷物を運ぶために六十六匹の伝馬が置かれた上傳馬町の裏側にあったことから、この名がついた。藩初は橋場町付近に置かれていたという 中央通町 昭和40年9月1日 なし
裏古寺町 うらふるでらまち 藩政初期この地に寺が集められていたが、元和のころになってそのほとんどを寺町台へ移し、跡地を古寺町と呼び、その裏手にあったことからの命名か 片町2丁目 昭和40年9月1日 なし
越中町 えっちゅう
まち
万治3年(1660年)、加賀藩は長柄御小人300人を召し抱えたが、うち越中出身者がこの地に居住したことから、明治5年町名となった 横山町 昭和41年2月1日 なし
大隈町 おおすみ
ちょう
加賀藩の老臣、長大隅守の家臣が、寛文期に能登から移り住んだところで、新(荒)屋敷、新家中と呼ばれていたが、明治2年町名となった 中橋町 昭和41年9月1日 なし
大藪小路 おおやぶ
しょうじ
藩政前期、加賀藩士、禄高七百石の大藪勘右衛門にはじまり、以降代々の居邸がこの付近にあったので、この名がついた。本町の一つ 片町2丁目 昭和40年9月1日 なし
御歩町一番丁 おかちまち
いちばん
ちょう
藩政時代、藩主を警護する歩(かち)が住んでいたので、この名がついた。はじめ観音下御歩(徒)町などと呼ばれていた。一番丁から五番丁がある。地子町の一つ 東山1丁目 昭和41年9月1日 なし
御歩町二番丁 おかちまち
にばんちょう
藩政時代、藩主を警護する歩(かち)が住んでいたので、この名がついた。はじめ観音下御歩(徒)町などと呼ばれていた 東山1丁目 昭和41年9月1日 なし
御歩町三番丁 おかちまちさんばんちょう 藩政時代、藩主を警護する歩(かち)が住んでいたので、この名がついた。はじめ観音下御歩(徒)町などと呼ばれていた 東山1丁目 昭和41年9月1日 なし
御歩町四番丁 おかちまちよんばんちょう 藩政時代、藩主を警護する歩(かち)が住んでいたので、この名がついた。はじめ観音下御歩(徒)町などと呼ばれていた 東山1丁目 昭和41年9月1日 なし
御歩町五番丁 おかちまちごばんちょう 藩政時代、藩主を警護する歩(かち)が住んでいたので、この名がついた。はじめ観音下御歩(徒)町などと呼ばれていた 東山1丁目 昭和41年9月1日 なし
桶町 おけちょう 藩政の初め、桶屋職人たちが多く住んでいたので桶屋町と呼ばれていたが、元禄のころからこの名になった。本町の一つ 彦三町1・2丁目、尾張町2丁目 昭和40年9月1日/
昭和45年6月1日
なし
御小人町 おこびとまち 藩政時代、藩主の行列の際にその身のまわり品の茶弁当、矢箱、提灯などを運ぶ御小人の組地であったので、この名がついた。地子町の一つ 扇町、横山町、
暁町
昭和41年2月1日 なし
御仲間町 おちゅうげんまち 元禄のころは、御馬屋町と呼ばれ、藩の馬の世話をする仲間の組地があったことからこの名で呼ばれた。 元町2丁目、
森山2丁目、
小橋町
昭和50年2月1日/
昭和41年9月1日
なし
大音町 おとうまち 藩政時代、加賀藩士大音帯刀の下屋敷があったので、大音家中と呼ばれていたが、明治2年、この名がついた 石引3丁目 昭和39年4月1日 なし

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