旧町名復活・か行

か行一覧
旧町名 よみがな 由来 現在の町名 住居表示の実施 備考
柿木畠 かきのきばたけ 寛永8年・12年の火災の教訓から、この一帯を火除地とするため、藩士の邸宅を移転させ空き地にし、柿の木を植えた。万治年間から再び藩士の邸地となったが、地名として残った 広坂1丁目、片町1丁目 昭和41年2月1日 平成15年10月1日復活
柿木町 かきのきまち 三代藩主前田利常のときに火除地として城下の各地に柿木畠が設けられた。柿本人麻呂をもじり、柿の木のもとでは火が止まるに因んだといわれる。この地にも柿が植えられたが、後に町立てされてこの名がついた。地子町の一つ 扇町、天神町2丁目、暁町 昭和41年2月1日 なし
角場川岸町 かくばかわぎしまち 町名は角場(鉄砲の射的場)と犀川川岸に因むと推測される。地子町の一つ 城南2丁目、菊川1丁目 昭和39年4月1日 なし
鍛冶片原町 かじかたはらまち 鍛治町と町続きで町の東側が外総構堀で民家のないことによる。町の格は「七ケ所であった 本町1丁目 昭和40年9月1日 なし
鍛冶町 かじまち 三代藩主、前田利常から刀鍛冶等で宅地を給わったものが集住し、はじめ安江鍛冶町と称されていたが、のち鍛冶町と呼ばれた。町の格付けは一部は「七ヶ所」と一部は「地子町」であった 此花町、本町1丁目、彦三町1丁目、安江町、笠市町 昭和40年9月1日 なし
主計町 かずえまち 大阪冬夏の両役に功をたてた加賀藩士、富田主計の邸地があったところなので、この名がついたといわれる。地子町の一つ 尾張町2丁目 昭和45年6月1日 平成11年10月1日復活
平成16年5月1日区域拡大
片原町 かたはらまち 家が用水の片側のみにあったころによる。片原大衆免砂走(すなはせ)とも呼ばれた。地子町の一つ 森山1丁目、東山3丁目 昭和41年9月1日 なし
勝尾町 かつおまち 初め、この地に加賀藩士勝尾氏の屋敷があったことによる 芳斉2丁目、昭和町 昭和40年9月1日 なし
金石相生町 かないわあいおいちょう 慶応2年大野と宮腰とが合併したときに出来た町で、芝居小屋、茶屋などが建ち、昭和に入ってから涛々園ができ、賑わった町であった 金石北1~4丁目 昭和43年9月1日 令和3年11月1日復活
金石今町 かないわいままち 町名の由来はさだかではないが、古くより、海から上がられた佐那武の神様が通られたということで、夏祭りの時には家ごとに竹を飾り、当時の薮を再現する 金石西2丁目 昭和43年9月1日 令和1年11月1日復活
金石御塩蔵町 かないわおしおぐらまち 加賀藩の塩蔵が建っていたことから付いた町名で、能登方面から多くの塩俵が運び込まれた 金石西4丁目 昭和43年9月1日 なし
金石御船町 かないわおふねまち 加賀藩の御船手足軽の住んでいた所からついた町名 金石北1丁目 昭和43年9月1日 令和2年11月1日復活
金石海禅寺町 かないわかいぜんじまち 海禅寺という寺があったことからついた町名で、この寺がいつ頃に上越前町に移転したかはさだかではない 金石西1、2丁目 昭和43年9月1日 令和1年11月1日復活
金石上越前町 かないわかみえちぜんまち 江戸時代に福井と取引をしていた人達が住んでいた。以前は越前町と呼ばれ、日本の地図を作った伊能忠敬もこの町に一泊しており、上越前町は出町と呼ばれていた 金石西4丁目、金石北1、2丁目 昭和43年9月1日 令和3年11月1日復活
金石上新浜町 かないわかみしんはままち 江戸時代には新浜町と呼ばれており、後年、上と下に分かれた 金石西4丁目 昭和43年9月1日 なし
金石上寺町 かないわかみでらまち 江戸時代に寺院が多くあるということで、寺町と呼ばれていた。後に、上・下で離されたが、上寺町の一部は御坊町と呼ばれていた 金石西3丁目 昭和43年9月1日 なし
金石上浜町 かないわかみはままち 元禄時代に書かれた宮腰絵図に記されている由緒ある町名である 金石西4丁目 昭和43年9月1日 令和2年11月1日復活
金石上本町 かないわかみほんまち 本町の上口にあるためについた町名 金石西1丁目 昭和43年9月1日 なし
金石冬瓜町 かないわかもりまち 江戸時代に要川を境として川向かいに町があった。宮腰の重要な港口の町であり、この町一町で御輿をかつぐことから、古くは、神守(かもり)町と呼ばれていた 金石西1丁目 昭和43年9月1日 なし
金石下越前町 かないわしもえちぜんまち 江戸時代に福井と取引をしていた人達が住んでいた。以前は越前町と呼ばれ、日本の地図を作った伊能忠敬もこの町に一泊しており、下越前町は家も大きかったので荒町と呼ばれていた 金石西4丁目、金石北2丁目 昭和43年9月1日 なし
金石下寺町 かないわしもでらまち 江戸時代に寺院が多くあるということで、寺町と呼ばれていた。後に、上・下で離された 金石西3丁目 昭和43年9月1日 令和2年11月1日復活
金石下本町 かないわしもほんまち 本町の下に連なった町で店屋も多く賑わった町であった 金石西3、4丁目 昭和43年9月1日 平成30年11月1日復活
金石下新浜町 かないわしもしんはままち 江戸時代には新浜町と呼ばれており、後年、上と下に分かれた 金石西4丁目、金石北2丁目 昭和43年9月1日 なし
金石重胆寺町 かないわじゅうたんじまち 重胆寺という寺があったことから付いた町名、中山家文書の中に出てくるキリシタンの寺であったという。また、この寺は宮腰絵図の中にも載っている 金石西1、2丁目 昭和43年9月1日 なし
金石新町 かないわしんちょう 元禄時代に書かれた宮腰絵図に記されている由緒ある町名である 金石西2丁目 昭和43年9月1日 令和1年11月1日復活
金石達磨町 かないわだるままち 達磨寺という寺があったのでついた町名であるが、この達磨寺が南蛮寺でキリシタンであったとの説もあり、また、きれいな水が多く湧き出たことから、酒蔵もあったと伝えられている 金石西1、2丁目 昭和43年9月1日 なし
金石鉄砲町 かないわてっぽうまち 町の形が鉄砲の形に似ていたところからついた町名 金石西3丁目、金石北1丁目 昭和43年9月1日 なし
金石通町 かないわとおりまち 江戸時代には上通町と下通町にわかれていて、大店もあり人の通りも多く賑わった町であった 金石西3、4丁目 昭和43年9月1日 平成30年11月1日復活
金石長田町 かないわながたまち 藩政時代の古文書には、長田町と長田後町の町名がある。神社と関係があったようだが、後年合併された 金石西2丁目 昭和43年9月1日 なし
金石新潟町 かないわにいがたまち 越後の新潟方面との商売取引をしていた人達がいたのでついた町名といわれる 金石西4丁目 昭和43年9月1日 なし
金石浜町 かないわはままち 元禄時代に書かれた宮腰絵図に記されている由緒ある町名である 金石西4丁目 昭和43年9月1日 令和2年11月1日復活
金石古河町 かないわふるかわまち 江戸時代には上通町と下通町にわかれていて、大店もあり人の通りも多く賑わった町であった 金石西2、4丁目 昭和43年9月1日 なし
金石本町 かないわほんまち 宮腰の中心を成していた町で、町年寄、町奉行の役所や大店があって町一番の大通りであった 金石東1~3丁目、金石北1、2、4丁目、金石本町 昭和43年9月1日 なし
金石松原町 かないわまつばらちょう 藩政時代にはこの辺は松林や桑畑であった。明治になって家が建ち町名がつけられた 金石北1、3丁目 昭和43年9月1日 なし
金石松前町 かないわまつまえまち 北海道松前と船で商売をしていた人達が住んでいた町で後年になり古河町と合併された 金石西4丁目 昭和43年9月1日 令和2年11月1日復活
金石味噌屋町 かないわみそやちょう 元禄時代に書かれた宮腰絵図に記されている由緒ある町名である 金石西2、4丁目 昭和43年9月1日 平成30年11月1日復活
金石湊町 かないわみなとまち 藩政時代にはこの辺は川が流れており、塩蔵へ入る船が着いたところから付いた名で、川の護岸石が一部残っている 金石西4丁目 昭和43年9月1日 なし
金石横町 かないわよこちょう 元禄時代に書かれた宮腰絵図に記されている由緒ある町名である 金石西2丁目 昭和43年9月1日 なし
金屋町 かなやちょう もと今の尾山神社の地あたりにあった。藩の初め、銀座役金屋彦四郎らが居住し、金銀貨を鋳造していたのでこの名がつけられ、後に、この地に移されたという。金谷町とも書いた。地子町の一つ 東山2丁目、森山1丁目 昭和41年9月1日 なし
上安藤町 かみあんどうまち 藩政時代、鉄砲組頭、安藤長左衛門の組地があったので、この名がついたという。また、あんどん町とも呼ばれた 石引1丁目 昭和39年4月1日 なし
上石伐町 かみいしきりまち 戸室山から石を伐り出す藩の石伐職人20人の組地があったことによる。延宝年間(1673〜81年)に上、下石伐町に分立した。地子町の一つ 寺町3丁目、寺町5丁目 昭和38年6月1日/
昭和42年9月1日
なし
上石引町 かみいしびきまち 藩政の初め、金沢城の石垣を築くため、戸室山から切り出した戸室石を引いて運んだ道筋であったので、この名がついたという。上・中・下石引町があった。いしびきちょうとも呼ばれた 石引1・2丁目、笠舞2丁目 昭和39年4月1日 なし
上今町 かみいままち 今町は新しく町立てされたことによる。今町の年代は、不明だが、元禄年間(1688〜1704年)、上今町・下今町の記録がある。本町の一つ 尾張町1丁目 昭和45年6月1日 なし
上小川町 かみおがわちょう 藩政時代は、川(河)端町、西養寺町前、誓願寺前、玄門寺前などのまちであったが、小川に沿ったまちなので、明治4年、上・下小川町に改められた 東山2丁目 昭和41年9月1日 なし
上小柳町 かみおやなぎまち 小柳町は、かつて柳の木が生えていたとも、居住者の氏名によるともいわれる。後年、上・下に分町したが、年代は不明。地子町の一つ 野町2丁目 昭和42年9月1日 なし
上欠原町 かみがけはらまち 崖縁の通りであるため、藩政時代は笠舞がけ原、がけ片原などと呼ばれていたが、のち、略してこの名がついた。明治4年、上・中・下欠原町となった。地子町の一つ 石引2丁目 昭和39年4月1日 なし
上川除町 かみかわよけまち 川除は犀川の右岸近くの川原に堤防を築き、堤防の上に家を建て町立てしたことによる。寛政7年(1795年)から上川除町、中川除町、下川除町、犀川下川除町に分立した。地子町の一つ 菊川2丁目、幸町 昭和39年4月1日 なし
上胡桃町 かみくるみちょう この地の東惣構堀にかかる橋を、橋詰の染師黒梅屋の名によって黒梅橋といったが、俗にくるみ橋と呼んだことから、明治4年この名で町立てされた 兼六元町、大手町 昭和41年2月1日 なし
上主馬町 かみしゅめまち 藩政時代、鉄砲頭をしていた本庄主馬の邸地があったので、主馬殿町と呼ばれ、のち、この名がついた。明治4年、上・中・下主馬町等に分立した。地子町の一つ 菊川1丁目 昭和39年4月1日 なし
上新町 かみしんちょう 藩政初期からの町名で、尾張町に家屋が増え、町地が狭くなったので、新しく町立てされたため、新町の名がついた。明治4年、上・下新町に分町した 尾張町2丁目 昭和45年6月1日 なし
上鷹匠町 かみたかじょうまち 寛文2年(1662年)から、藩の鷹匠の邸地や鷹部屋がここにあったので、この名がついた。明治初期、上・中・下鷹匠町となる 石引2・4丁目 昭和39年4月1日 なし
上堤町 かみつつみちょう 堤町は、かつて付近で黄金を掘り起こした跡が堤となり、そこに町屋が立てられたとの説もあるが、誤り。下、横堤町とあわせて堤町と呼ばれた。町名由来で考えられることは、金沢御堂・金沢城の防衛の一つとして堤が築かれたと推測できる。本町の一つ 高岡町、尾山町 昭和40年9月1日/
昭和41年2月1日
なし
上傳馬町 かみてんままち 藩政時代、藩用の人や荷物を運ぶために六十六匹の伝馬が置かれたことからこの名がついた。藩初は橋場町付近に置かれていたという。上・下・横・裏伝馬町等がある。地子町の一つ 片町2丁目 昭和40年9月1日 なし
上百々女木町 かみどどめきまち 藩政時代、木曽谷に注ぎ込む川の流れが急で、高い音をたてていたところから、ここに架けられた橋をどどめき橋と呼び、この名が町名になったという。明治4年、百々女木町、馬坂新町、集福寺門前、宝円寺門前の一部の合計77軒で成立した 石引1丁目 昭和39年4月1日 なし
上中島町 かみなかじままち 中島町の町名は、当地がかつて浅野川の中洲であったことによる。地子町の一つ。明治4年、上・下中島町となる 昌永町 昭和41年9月1日 なし
上松原町 かみまつばらちょう もと松原口門の前にあったことからこの名がついたという。藩政期には権現堂御門前町ともいい、のち、御門前松原町といったが、明治4年、上松原町となった 香林坊1丁目、尾山町 昭和41年2月1日 なし
上弓ノ町 かみゆみのまち 天和のころから足軽弓組の組地で、如来寺組、経王寺組と射場があり、小立野弓ノ町と呼ばれた。明治5年、如来寺組は上弓ノ町、経王寺組は中弓ノ町に、また、横山同心組の組地は下弓ノ町となった 小立野2・5丁目 昭和39年4月1日 なし
川上新町一丁目 かわかみしんまちいっちょうめ もとの犀川の河原に堤防を築き、外側を埋め立てて新しく町地としたことによる。一丁目から三丁目があった。地子町の一つ 菊川1丁目 昭和39年4月1日 なし
川上新町二丁目 かわかみしんまちにちょうめ もとの犀川の河原に堤防を築き、外側を埋め立てて新しく町地としたことによる。一丁目から三丁目があった。地子町の一つ 菊川1丁目 昭和39年4月1日 なし
川上新町三丁目 かわかみしんまちさんちょうめ もとの犀川の河原に堤防を築き、外側を埋め立てて新しく町地としたことによる。一丁目から三丁目があった。地子町の一つ 菊川1・2丁目 昭和39年4月1日 なし
河内町 かわちまち 加賀藩の老臣禄高一万七千石の奥村氏の下屋敷(家中町)があったところで、同家の当主が河内守に任ぜられたことがあり、明治2年、この名がついた。 石引1丁目 昭和39年4月1日 なし
河原町 かわらまち この付近は、もと犀川の河原で元和2年(1616年)、犀川の改修に伴って新たに作られた町の一つであるところから、はじめ、後河原町と呼ばれたが、のち、この名がつけられた。本町の一つ 片町1丁目 昭和41年2月1日 なし
観音町一丁目 かんのんまちいっちょうめ 元和二年、観音院が卯辰山から移されたとき、観音院から浅野川大橋までの道を拡張し、この通りを観音町と称した 東山1丁目 昭和41年9月1日 令和1年5月1日復活
観音町二丁目 かんのんまちにちょうめ 元和二年、観音院が卯辰山から移されたとき、観音院から浅野川大橋までの道を拡張し、この通りを観音町と称した 東山1丁目 昭和41年9月1日 令和1年5月1日復活
観音町三丁目
(注意)一部現存
かんのんまちさんちょうめ 元和二年、観音院が卯辰山から移されたとき、観音院から浅野川大橋までの道を拡張し、この通りを観音町と称した 東山1丁目 昭和41年9月1日 令和1年5月1日復活
木揚場 きあげば かつて宮越往来が当地に通っていた頃、宮越から水上輸送した材木を当地で陸揚げしたことによる。三社揚場ともいった。地子町の一つ 元菊町 昭和41年9月1日 なし
木倉町 きぐらまち 藩政の初めころ、藩の材木蔵があったのでこの名がついた。もとは木町、また一時期、西側半分は出大工町とも呼ばれていた。本町の一つ 片町2丁目 昭和40年9月1日 平成15年8月1日復活
木曽町 きそまち 百々女木橋から材木町へ出る谷合の町である。渓流と周りの風致が信州の木曽路に似ていることから、この名が呼ばれた。明治4年に命名された 東兼六町、扇町 昭和41年2月1日 なし
北石坂新町 きたいっさかしんまち 石坂村が城下町に近いことから、早くから町場化した。明治初年に北石坂町の新町として命名された 増泉1丁目、白菊町 昭和42年9月1日/
昭和44年2月1日
なし
北石坂町 きたいっさかまち かつて当町は、南石坂町とともに石坂町と呼ばれたが、文政6年(1823年)南北に分かれ、町名となった。地子町の一つ 野町2丁目 昭和42年9月1日 なし
北長門町 きたながとまち 加賀藩士、山崎長門の邸地があったところから、はじめは長門町と呼ばれていた。文政6年(1823年)、南長門町が町立てされてから、この名になった。地子町の一つ 片町2丁目 昭和40年9月1日 なし
木ノ新保一番丁 きのしんぼいちばんちょう 古くは石川郡石浦庄木の新保村で、藩政初期のころ金沢城近くの西側からこの地に移り、一帯を木ノ新保と総称した。明治4年、木ノ新保厩町が木ノ新保一番丁となった 本町1丁目、此花町 昭和40年9月1日 なし
木ノ新保二番丁 きのしんぼにばんちょう 古くは石川郡石浦庄木の新保村で、藩政初期のころ金沢城近くの西側からこの地に移り、一帯を木ノ新保と総称した。明治4年、木ノ新保須田町が二番丁となった 本町1・2丁目 昭和40年9月1日 なし
木ノ新保三番丁 きのしんぼさんばんちょう 古くは石川郡石浦庄木の新保村で、藩政初期のころ金沢城近くの西側からこの地に移り、一帯を木ノ新保と総称した。明治4年、木ノ新保糸倉町が木ノ新保三番丁となった 本町1丁目、此花町 昭和40年9月1日 なし
木ノ新保四番丁 きのしんぼよんばんちょう 古くは石川郡石浦庄木の新保村で、藩政初期のころ金沢城近くの西側からこの地に移り、一帯を木ノ新保と総称した。明治4年木ノ新保竹町が四番丁となった 本町2丁目、此花町、堀川町 昭和40年9月1日 なし
木ノ新保六番丁 きのしんぼろくばんちょう 古くは石川郡石浦庄木の新保村で、藩政初期のころ金沢城近くの西側からこの地に移り、一帯を木ノ新保と総称した。明治4年、「白髭前」が六番丁となった 本町2丁目 昭和40年9月1日 なし
木町一番丁 きまちいちばんちょう 藩政のころ、材木問屋が集まっていたので、はじめ卯辰ノ木町、かつて四筋あったことから四丁木町などと呼ばれ、のち、この名がついた。地子町の一つ 東山1・2丁目 昭和41年9月1日 なし
木町二番丁 きまちにばんちょう 藩政のころ、材木問屋が集まっていたので、はじめ卯辰ノ木町、かつて四筋あったことから四丁木町などと呼ばれ、のち、この名がついた。地子町の一つ 東山1・2丁目 昭和41年9月1日 なし
木町三番丁 きまちさんばんちょう 藩政のころ、材木問屋が集まっていたので、はじめ卯辰ノ木町、かつて四筋あったことから四丁木町などと呼ばれ、のち、この名がついた。地子町の一つ 東山1丁目 昭和41年9月1日 なし
木町四番丁 きまちよんばんちょう 藩政のころ、材木問屋が集まっていたので、はじめ卯辰ノ木町、かつて四筋あったことから四丁木町などと呼ばれ、のち、この名がついた。地子町の一つ 東山1・2丁目 昭和41年9月1日 なし
銀杏町 ぎんなんちょう 藩士本多家の家士であった芝木氏の邸地が当地にあり、同所にはイチョウの古木があったことに因むといわれるが、当地には芝木氏の邸地は見当たらない 桜町、暁町 昭和41年2月1日 なし
九人橋下通 くにんばししたどおり 九人橋は東内惣構堀に架けられた橋で、橋番が置かれていた。十人並んで渡ると九人の影しか映らないという伝説から、橋の名がついたという。町名はここから生まれた 兼六元町 昭和41年2月1日 なし
九枚町 くまいまち 加賀藩の老臣奥村氏(一万二千石)の下屋敷地であり、同家の家紋九枚笹にちなみ、明治2年、この名がつけられた 暁町 昭和41年2月1日 なし
賢坂辻通 けんさかつじどおり 藩政時代は、小性町と称されているように平士屋敷を中心とした武家町であった。町名は久保市神社の氏子圏の南東境であったことから、剣崎辻とも剣先辻と呼ばれ、明治4年、町名となった 小将町、兼六元町 昭和41年2月1日 なし
玄蕃町一番丁 げんばまちいちばんちょう 加賀藩重臣、津田玄蕃(禄高1万石)の下屋敷があったところで、明治2年、この名がつけられた。一番丁、二番丁、三巡りの3つに分かれた 材木町 昭和41年2月1日 なし
玄蕃町二番丁 げんばまちにばんちょう 橋場町、材木町 昭和41年2月1日 なし なし
玄蕃町三巡り げんばまちみつめぐり 橋場町 昭和41年2月1日 なし なし
高儀町 こうぎまち もと寺地などであったが、藩政前期に藩用地とし藩士の屋敷などを置いたので、公儀町と呼ばれ、文政6年(1823年)公儀の文字をはばかり、この名に改められたという。地子町の一つ 長土塀2・3丁目 昭和40年9月1日 なし
五十人町 ごじゅうにんまち 藩政前期、加賀藩士小幡宮内の下屋敷があったが、のち、足軽五十人の組地となったので、この名がついた 白菊町、千日町 昭和44年2月1日 なし
小尻谷町 こじりだにまち 坂の町であり、この坂が尻谷坂(尻垂坂)より小さく、小尻谷坂と呼ばれたことによる。明治4年頃に町名がつけられた 東兼六町 昭和41年2月1日 なし
児玉小路 こだましょうじ 稲荷社の上から材木町に通じる小路で、藩士児玉氏の屋敷地があったことから、名付けられた 橋場町 昭和41年2月1日 なし
五寶町 ごぼうまち 西末寺(浄土真宗本願寺派別院)の門前で、藩政時代は西末寺町、西御坊町とも呼ばれていたが、明治4年、この名に改められた 安江町、笠市町、瓢箪町 昭和40年9月1日 なし

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