金沢城惣構跡
金沢城惣構跡(かなざわじょう そうがまえあと)について
慶長4年(1599年)、二代藩主・前田利長は高山右近に命じて、金沢城と城下の防備のため東西の内惣構を、さらに慶長15年(1610年)、三代藩主・利常も同様の目的で篠原出羽守一孝(しのはらでわのかみかずたか)に命じて東西の外惣構を造ったといわれている。当時はどの堀も城側に土居を盛り、竹やぶを配していた。
そして御普請会所のもとに、惣構肝煎(きもいり)同組合頭・惣構橋番人などの町役人がいて土居・堀を見廻り、堀中にゴミを捨てること、土居を崩すこと、竹木を伐採することを禁じていた。
役割を終えた惣構の堀は、埋め立てにより狭くなり、まちなかを潤す用水として今日まで利用されている。