主計町だより
まちの歴史・特色
ライトアップされた主計町の茶屋街
主計町内の様子
ここに上屋敷を構えたことから、後に町名の由来となった富田主計は、禄高1万石余の人持組頭で、宇喜多秀家の息女(前田利家の孫にあたる)を室(妻)として、元和4年(1618年)に亡くなった人物です。
現在の金沢の繁華街の中心は、香林坊および片町周辺ですが、明治や昭和の初め頃は、尾張町や橋場町周辺であり、主計町のお茶屋街としての佇まいは、明治に入ってから形成されたものです。
今も、主計町界隈では昔ながらの料亭や茶屋が建ち並び、どこからともなく芸妓が奏でる太鼓と三味線の音が聞こえることがあります。
なお、郷土の三大文豪の一人である泉鏡花は、主計町の隣である旧「新町」の生まれで、鏡花は、たびたび作品の中で、往事の主計町の姿を表現しています。
復活後のまちの様子 まちづくり活動の紹介
中の橋と浅野川
主計町区域拡大をお祝いする会
平成11年10月1日、最初に旧町名復活をした主計町は、平成16年5月1日に町の区域の拡大をしています。これはコミュニティの単位を町の(復活)区域とする弾力的な運用が可能になったためです。
主計町は、元々、金沢のお茶屋街の風情を残す観光コースの一つとなっていたのですが、旧町名復活がきっかけで、全国的に知られるようになり、現在は、定番の観光コースになっております。
金沢市は、主計町を平成15年4月に市の伝統的建造物群区域として文化財指定をし、平成18年4月には地元と「まちづくり協定」を、また、同年7月には「歩けるまちづくり協定」を締結し、きめ細やかに町並みや景観の保存に努め、市民および観光客が、歴史的風情やロマンに想いをはせながら、安心してそぞろ歩きが楽しめるような環境整備を住民と協働で取り組んでいます。