縄文時代の遺跡

市内の遺跡-縄文(じょうもん)時代

縄文時代とは

今からおよそ1万2千年前、氷河期が終わり温暖化が始まったころ、人々は食物を煮炊きするための土器を作り始めました。この頃の土器の表面には縄をころがした文様が付けられていたため、後世の人々はこの土器を「縄文土器」と呼び、縄文土器が作られた時代を「縄文時代」と呼んだのです。
縄文時代は今からおよそ2,700年前まで、約1万年もの長い間続いたため、土器の特徴などによって草創期-早期-前期-中期-後期-晩期の6時期に分けられています。また、地域によっても土器の形や大きさ、文様などが大きく異なります。

縄文時代の生活

縄文時代の人々は野山でドングリやクリなどの木の実や山菜などを採集して食料としていました。また、弓矢や落とし穴などを使ってシカやイノシシなどの動物を狩っていました。海や川では、釣り針やモリ、ヤスなどを使って魚を捕ったり、手網(たも)などを使ってシジミやアサリなどの貝を集めたりしていました。
当時の人々は集団で一箇所に定住し、竪穴住居と呼ばれる半地下式の家に住んでいました。いわゆる「ムラ」の始まりです。ムラの中には貝塚と呼ばれるゴミ捨て場や亡くなった人を埋葬する墓場なども設けられていました。

縄文時代の道具

縄文時代にはまだ金属がなかったので、道具はすべて土、木、石、骨などで作られていました。
土器は縄文時代の最大の発明の一つです。文字どおり土から作られた器のことで、粘土をこねて形を作り、乾燥させた後に火で焼いて作ります。土器の出現により食べ物の煮炊きや貯蔵が可能となり、食生活の幅が広がったと考えられています。
木は当時の人々の最も身近にあった材料といえます。加工して容器を作ったり、枝を削って弓矢を作ったり、建物の柱や梁、屋根に使ったり…木は様々な用途に使われました。
石も様々な使われ方をしています。木を加工する磨製石斧、土を掘るための打製石斧、木の実を割ったりすり潰したりする石皿、矢の先端に取り付ける石鏃など…祈りやまじないに使う祭祀具や身体を飾る装身具にも石を加工したものが数多く見られます。
動物の骨や角は加工して釣り針やモリ、ヤスなどにしていたほか、縫い針のようなものも作られています。

中屋サワ遺跡から出土した様々な形の縄文土器

縄文土器(中屋サワ遺跡出土)

中屋サワ遺跡から出土した様々な種類の木製品

縄文時代の木製品(中屋サワ遺跡出土)

中屋サワ遺跡から出土した様々な種類の石製品

縄文時代の石製品(中屋サワ遺跡出土)

金沢市内の代表的な縄文遺跡

チカモリ遺跡

縄文時代後期から晩期にかけての集落跡で、ムラの中心に建てられた巨大な円形の建物が見つかったことで有名です。当時の人々は我々の想像を超えた高い土木技術を持っていたことがわかります。遺跡は国の史跡に指定され、現在はチカモリ遺跡公園として市民の憩いの場となっています。また、発掘調査で出土した柱根は石川県指定文化財に指定されています。

中屋サワ遺跡

縄文時代晩期の河川跡から土器、石製品、木製品が大量に出土しました。特に木製品は良好な保存状態のものが多く、漆製品からは当時の高い漆芸技術を知ることができます。その中でも籃胎漆器(らんたいしっき)はイネ科の植物で編んだ籠に漆を重ね塗りした精巧品で、本遺跡出土品を代表する遺物の一つです。中屋サワ遺跡の出土品は重要文化財に指定され、一部が金沢縄文ワールドで展示されています。

古府遺跡

縄文時代中期の集落跡で、出土した縄文土器は北陸地方の縄文時代中期中葉を代表する型式(古府式土器)として有名です。遺跡は金沢市指定史跡に指定されています。

東市瀬遺跡

縄文時代中期の集落跡で、竪穴住居跡が56箇所確認されました。住居の中心には石を組んだ炉が作られています。

土が掘り起こされ、遺跡の後が形どられて、所々に穴の形がある東市瀬遺跡から見つかった竪穴住居跡の写真

東市瀬遺跡・竪穴住居跡

北塚遺跡

縄文時代中期の集落跡です。指輪状石製品を始めとした石製装飾品が多数出土したことで知られています。

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