鎌倉時代、室町時代、安土・桃山時代の遺跡

市内の遺跡-鎌倉(かまくら)・室町(むろまち)・安土桃山(あづちももやま)時代

堅田館跡(堅田B遺跡)

沢山の丸い土師器(はじき)皿や割れてしまったツボ、割れた皿や器の破片が並べられている堅田館跡の出土遺物

堅田館跡の出土遺物

これまで、天皇と貴族が日本の政治を担っていましたが、しだいにその中心に武士が登場するようになります。平安時代末期に政権を握っていた平氏は源氏によって滅ぼされ、源氏の統領(とうりょう)である源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に幕府を開き、鎌倉時代が始まります。これ以降、明治時代になるまで、日本の政治は武士によって行われる武家政権が続くことになり、地方の統治も在地の武士によって行われるようになります。金沢市堅田町の堅田(かただ)館跡(堅田B遺跡)は地域の有力武士が居住していた館跡と考えられる遺跡で、発掘調査では約100メートル四方の堀に囲まれた敷地内に複数の建物跡が検出されています。館跡からは食器などの生活用品のほか、馬具や武具、将棋(しょうぎ)の駒(こま)や羽子板(はごいた)といった遊び道具、中国陶磁器や中国銭などの輸入品など、地域を支配した武士が用いた多種多様な道具が出土しています。中でも、般若心経を記した「巻数(勧請)板(かんじょういた)」と呼ばれる木簡は、当時の民俗行事を示すとても貴重な資料です。

般若心経が記された長方形の細長い茶色の板、堅田館跡出土1号巻数(勧請)板の実物写真

1号巻数板(勧請)板:出土品

長方形の細長い板に般若心経が記された堅田館跡出土1号巻数(勧請)板のレプリカ写真で、般若心経の経文がはっきりと見て取れる

1号巻数(勧請)板:レプリカ

土色で周りが区切られている堅田館跡の館の堀に描かれた部分をアップで写した写真

堅田館跡の堀跡

この時代には、仏教の新しい宗派がうまれ、武士や農民に広まりました。室町時代の金沢市の周辺では、本願寺(ほんがんじ)を中心とした浄土真宗(一向宗)の信仰で団結した門徒たちが、支配者層と対立するようになり、一向一揆(いっこういっき)を起こしました。この一揆により、この地方を治めていた守護(しゅご)の富樫政親(とがしまさちか)は高尾城で討ち滅ぼされ、その後100年間、加賀は一向宗門徒たちが支配する「百姓ノ持チタル国」となりました。本願寺は、その後現在の金沢城の一角に金沢御堂(かなざわみどう)という寺院をつくり、拠点としました。
安土桃山時代になると金沢御堂は織田信長軍により攻め落とされました。その後、前田利家が金沢城に入城し、次の江戸時代へと続きます。

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