明治時代~大正時代
明治時代
1868年、明治時代をむかえました。政治(せいじ)はそれまでの幕府(ばくふ)が中心の幕藩体制(ばくはんたいせい)から、明治の新しい政府による、中央集権体制(ちゅうおうしゅうけんたいせい)に変わっていきました。この流れを明治維新(いしん)といいます。 廃藩置県(はいはんちけん)という制度(せいど)のため、大名がいなくなったので、武士(ぶし)に給料をはらう人がいなくなりました。そのため、思想的にも経済的(けいざいてき)にも政府に不満を感じる士族(もとの武士)が、金沢にもたくさんいました。 そんな士族を中心に、明治政府に対抗(たいこう)する政治結社(せいじけっしゃ)というグループが作られていきました。しかし、その活動内容(ないよう)の本当のところは、士族を助けるための仕事の紹介(しょうかい)が中心でした。士族はずっと、苦しい生活を送らなくてはなりませんでした。 武力で明治政府に対抗(たいこう)しようとする動きもありましたが、1878年(明治11年)東京で起きた紀尾井町事件(きおいちょうじけん)を最後に、演説(えんぜつ)などによる自由民権(みんけん)運動へと変わっていきました。 文明開化(ぶんめいかいか)の波を受け、金沢にも新聞、写真、人力車、洋服、散髪(さんぱつ)などが登場しました。加賀藩(かがはん)の時代から学問や芸術(げいじゅつ)がさかんだったので、明治時代から後も文化面ではすぐれた人がたくさんでました。室生犀星(むろうさいせい)、泉鏡花(いずみきょうか)、徳田秋声(とくだしゅうせい)は、金沢が生んだ有名な三文豪(さんぶんごう)です。
稲垣義方
1889年(明治22年)、明治政府は全国に31の市を作りました。石川県でただ1つできたのが金沢市です。明治の初めのころとくらべると、人口が急激(きゅうげき)にへっていました。その状況(じょうきょう)の中で市を立て直す中心となる、市長と市議会議員を選ぶ選挙が行われ、初代の市長には、稲垣義方(いながきよしかた)が選ばれました。
【ちょっとコラム】 ~件名の由来~
明治の初め、加賀藩は金沢県という名前になりました。その後県庁(けんちょう)が石川郡美川町にうつされたとき、石川郡にちなんで石川県という県名になりました。その後すぐに県庁が金沢にもどってきましたが、県名が金沢県にもどることはありませんでした。
大正時代
大正時代になると、自由や平等を求める運動や労働運動がさかんになりました。 金沢でも給料の値上げ(ねあげ)や働くための条件(じょうけん)を良くすることを求めて、箔職人(はくしょくにん)、塗師(ぬりし)、陶工(とうこう)、履き物職人(はきものしょくにん)、製糸工(せいしこう)、百貨店員、郵便局員(ゆうびんきょくいん)など、多くの職種(しょくしゅ)で議論(ぎろん)やストライキが行われました。
市内には電車が開通し、粟崎遊園(あわがさきゆうえん)や涛々園(とうとうえん)などのレジャー施設(しせつ)もできてにぎわいました。香林坊(こうりんぼう)には、映画館(えいがかん)や百貨店、カフェなどができました。