昭和時代

集団疎開の児童

 

金沢は、空襲(くうしゅう)など、戦争の災害(さいがい)からまぬがれ、古いまちなみをそのまま残しています。戦争のときには、東京や大阪(おおさか)などの大都市から、たくさんの人々が疎開(そかい)してきました。お父さんやお母さんのもとをはなれて、不安とさびしさの中、お寺で生活しながら勉強する子どもたちもたくさんいました。

軍需工場の女学生

戦争が長くなると、市内の繊維製品(せんいせいひん)や工作機械の工場などが、戦争に必要な物をつくる軍需(ぐんじゅ)工場に変わりました。お寺の鐘(かね)や、家で使っている火鉢(ひばち)や、お釜(かま)、子どもの三輪車まで武器(ぶき)などをつくるための材料として集められました。学校の生徒たちも工場で働く人といっしょに、武器などを作っていました。

1945年(昭和20年)第2次世界大戦が終わりました。 日本は平和国家として再(さい)出発しました。金沢は、戦争の被害(ひがい)は受けませんでしたが、食べ物や生活に必要な物は、他の地域(ちいき)と同じように不足していました。今の彦三(ひこそ)通りや昭和町のあたりでは、警察(けいさつ)に見つからないように、統制品(とうせいひん)(値段(ねだん)や、配られる量が、国によって決められている物)が、売られていました。これを、ヤミ市といいます。

戦争の被害を受けていなかったので、政府(せいふ)の援助(えんじょ)が受けられないなど多くの問題がありました。しかし、繊維(せんい)産業や美術(びじゅつ)工芸を中心に、町がふたたび活気づくのも早かったようです。

金沢美術工芸大学

また、伝統(でんとう)文化を大切にする金沢では、1946年(昭和21年)金沢美術工芸専門(せんもん)学校(現在(げんざい)の金沢美術工芸大学)が開設(かいせつ)されました。その後も高校や大学がたくさんつくられ、現在も教育環境(かんきょう)の整備(せいび)が進められています。

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