七稲地蔵
安政五年(1858年)7月11日及び12日の夜、米価高騰に苦しむ民衆が卯辰山頂より金沢城に向かって大声で直訴した「泣き一揆」の中心人7人を供養するため、卯辰茶屋町の侠客・綿津屋政右衛門が彫らせたものです。
初めは観音坂の沿道にありましたが、現在は寿経寺門前の堂内に移されています。
安政五年(1858年)7月11日及び12日の夜、米価高騰に苦しむ民衆が卯辰山頂より金沢城に向かって大声で直訴した「泣き一揆」の中心人7人を供養するため、卯辰茶屋町の侠客・綿津屋政右衛門が彫らせたものです。
初めは観音坂の沿道にありましたが、現在は寿経寺門前の堂内に移されています。