江戸時代の遺跡

市内の遺跡-江戸(えど)時代

江戸時代は、徳川家康(とくがわいえやす)が開いた江戸幕府(ばくふ)が全国の大名を統治していた時代です。加賀国、能登国、越中国(の一部)は前田利家を藩祖とする加賀藩前田家が統治し、100万石を超える石高を領地していました。前田家は小立野台地の突端に築かれた金沢城を拠点としていました。
城を中心として発展した金沢城下町のまわりには、防御のための堀と土居(盛土)による惣構がめぐらされました。
城下は、約260年の間に4回も大火にあいました。広坂遺跡の武家屋敷跡では、そのうち寛永(かんえい)8年(1631年)、元禄(げんろく)3年(1690年)、宝暦(ほうれき)9年(1759年)の大火で焼けて捨てられた陶磁器が大量に見つかっています。中国から輸入された餅花手盤(もちはなてばん)は、この火事によって捨てらたものです。寛永の大火がきっかけとなって、城下の様相は大きく変わりました。道路が整えられ、武家屋敷や町屋の位置が整理されたのです。寛永9年(1632年)には、犀川上流から金沢城へ辰巳用水が引かれました。
経済の発展と共に城下町が拡大しました。西本願寺金沢別院の近くにあって栄えた安江町(やすえちょう)遺跡には、中・下級武士や町人が住んでいました。ここからは京都の乾山焼(けんざんやき)や、九州の有田焼(ありたやき)の大皿などが見つかっています。
発掘された建物跡や品々からは、当時の人々の生活やものの流れ、技術や信仰のあり方などを知ることができます。

紺色で白い模様が描かれている餅花手盤の写真

広坂遺跡・餅花手盤

上部が花びらのような形で二重線が紺色で描かれている乾山焼と墨で文字が書かれている器の裏側を見せている乾山焼の写真

安江町遺跡・乾山焼

黒色で部分的に朽ちてしまっている古い漆塗櫛が2つ並んで置かれている写真

安江町遺跡・漆塗櫛

土が掘り起こされ、遺跡の後が形どられていおり、大小の石が積み重なって置かれている広坂遺跡・長屋門跡の写真

広坂遺跡・長屋門跡

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