八幡町 |
はちまんまち |
卯辰八幡宮が、慶長4年から明治6年まで宇多須神社の地にあったので、社号からこの名がついた |
東山1・2丁目 |
昭和41年9月1日 |
なし |
八坂 |
はっさか |
小立野台地から扇町に至る坂道で木こりの通路が8つあったことによるという。伊予殿坂とも宝幢寺坂ともいう。地子町の一つ |
東兼六町、小将町 |
昭和41年2月1日 |
なし |
英町 |
はなぶさちょう |
もと安江木町の一部で、町内に英田広済寺があったことから、文政6年(1823年)、町名改めのとき「英」の一字を用いて町名とした。地子町の一つ |
芳斉2丁目、本町2丁目 |
昭和40年9月1日 |
なし |
馬場一番丁 |
ばばいちばんちょう |
浅野川馬場または関助町とも呼ばれた。藩士達の馬場があったことに由来する。一番丁から六番丁まであった |
東山3丁目 |
昭和41年9月1日 |
なし |
馬場二番丁 |
ばばにばんちょう |
浅野川馬場または関助町とも呼ばれた。藩士達の馬場があったことに由来する。一番丁から六番丁まであった |
東山3丁目 |
昭和41年9月1日 |
なし |
馬場三番丁 |
ばばさんばんちょう |
浅野川馬場または関助町とも呼ばれた。藩士達の馬場があったことに由来する。一番丁から六番丁まであった |
東山3丁目 |
昭和41年9月1日 |
なし |
馬場四番丁 |
ばばよんばんちょう |
浅野川馬場または関助町とも呼ばれた。藩士達の馬場があったことに由来する。一番丁から六番丁まであった |
東山3丁目 |
昭和41年9月1日 |
なし |
馬場五番丁 |
ばばごばんちょう |
浅野川馬場または関助町とも呼ばれた。藩士達の馬場があったことに由来する。一番丁から六番丁まであった |
東山3丁目、小橋町 |
昭和41年9月1日 |
なし |
馬場六番丁 |
ばばろくばんちょう |
浅野川馬場または関助町とも呼ばれた。藩士達の馬場があったことに由来する。一番丁から六番丁まであった |
小橋町 |
昭和41年9月1日 |
なし |
馬場崎町 |
ばばさきちょう |
藩政時代、藩の老臣横山氏上屋敷の馬場の横通りを馬場先と呼んでいたことから、明治4年町名となった |
桜町、暁町、横山町 |
昭和41年2月1日 |
なし |
蛤坂新道 |
はまぐりざかしんまち |
享保18年(1733年)大火の後、新しく道路を造成したため、焼けた蛤が口を開いたようだと、人々は蛤坂と俗称した。それまでは妙慶寺坂であった。明治元年に新道が造られ、家が建てられた為に町名となった |
清川町 |
昭和39年4月1日 |
なし |
蛤坂町 |
はまぐりざかまち |
享保18年(1733年)大火の後、新しく道路を造成したため、焼けた蛤が口を開いたようだと、人々は蛤坂と俗称した。それまでは妙慶寺坂であった。明治4年、蛤坂町となった。地子町の1つ。 |
寺町5丁目、野町1丁目 |
昭和42年9月1日 |
なし |
早道町 |
はやみちまち |
藩政時代、藩の足軽飛脚が居住していた組地であった。飛脚のことを早道とよんでいたので、この名がついた。足軽の組地であったが、明治になって一般の町人が住むようになった |
菊川2丁目、幸町 |
昭和39年4月1日 |
なし |
東馬場町 |
ひがしばばまち |
浅野川馬場または関助町とも呼ばれた。藩士達の馬場があったことに由来する。もとは関助馬場。明治4年橋詰町と下博労町が合併して東馬場町となる |
東山3丁目 |
昭和41年9月1日 |
なし |
備中町 |
びっちゅうまち |
加賀藩士、岡島備中の下屋敷があったところで、元禄ころは備中上地町といいい、のち、この名となった |
材木町 |
昭和41年2月1日 |
なし |
百姓町 |
ひゃくしょうまち |
もと石川郡石浦村の農地であったが、江戸時代後期(寛永8年以前)に町立てされた。農民が住んでいた町ということからこの名がついた。地子町の一つ |
幸町 |
昭和39年4月1日 |
なし |
火除町 |
ひよけまち |
藩政時代、防火のため城下町の所々に空地を設けて火除地としたが、ここもその一つであったのでこの名で呼ばれた。火避町とも書いた。地子町の一つ |
暁町 |
昭和41年2月1日 |
なし |
日吉町 |
ひよしまち |
藩政時代に宮腰往還から広岡山王社への山王道が通称日吉町と呼ばれ、明治期に町名となったが、鉄道高架事業で高架下に消えた |
広岡1丁目、中橋町 |
平成8年10月2日 |
なし |
広岡町 |
ひろおかまち |
ひろおかの地名は平安末期に見え、平岡野・弘岡と書き、藩政期には北広岡村となり、町地の拡大で広岡町となった |
広岡1〜3丁目、西念1丁目、駅西本町1丁目 |
昭和61年2月1日 |
なし |
吹屋町 |
ふきやまち |
もと石川郡田井村の地内で、鋳物師や職人が住んだので、この名がついた。藩政期の記録には、鎔屋町(いがたやまち)とも書かれている。地子町の一つ |
桜町 |
昭和41年2月1日 |
なし |
袋町 |
ふくろまち |
藩政期の本町の一つで、この町筋が北国街道であった。道の両端が曲って袋のようであったところから、この名がついたという |
安江町、尾張町2丁目 |
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平成19年3月1日 復活 |
藤棚 |
ふじだな |
この地はもともと成福寺・白山社の旧地で成福寺門前といわれていた。境内に大きな藤棚があったので、通称藤棚とも呼ばれていたが、明治4年に町名になった。地子町の一つ |
城南1・2丁目 |
昭和39年4月1日 |
なし |
淵上町 |
ふちのえまち |
浅野川の淵の上にできた町で、藩政のころは堀川川除町、堀川淵上町と呼ばれていたが、明治の初め、この名に改められた |
笠市町、堀川町 |
昭和40年9月1日 |
なし |
古寺町 |
ふるでらまち |
藩政初期この地に寺が集められていたが、元和のころになってそのほとんどを寺町台へ移し、跡地をこの名で呼ぶようになった |
片町2丁目 |
昭和40年9月1日 |
なし |
古道 |
ふるみち |
金沢城下から宮腰(金石)へ通じる古い道であったが、元和2年(1616年)新しく往還ができたので、新道に対して古道と呼んだ。地子町の一つ |
昭和町、元菊町、中橋町、長田1丁目 |
|
なし |
古道一番丁 |
ふるみちいちばんちょう |
金沢城下から宮腰(金石)へ通じる古い道であったが、元和2年(1616年)新しく往還ができたので、新道に対して古道と呼んだ。地子町の一つ。明治4年、一番丁と二番丁になった |
昭和町、芳斉2丁目 |
昭和40年9月1日 |
なし |
古道二番丁 |
ふるみちにばんちょう |
金沢城下から宮腰(金石)へ通じる古い道であったが、元和2年(1616年)新しく往還ができたので、新道に対して古道と呼んだ。地子町の一つ。明治4年、一番丁と二番丁になった |
昭和町、元菊町 |
|
なし |
古道鉄道宿舎 |
ふるみちてつどうしゅくしゃ |
金沢城下から宮腰(金石)へ通じる古い道であったが、元和2年(1616年)新しく往還ができたので、新道に対して古道と呼んだ。大きな鉄道宿舎があったことから、この名がついた |
元菊町 |
昭和41年9月1日 |
なし |
寶船路町 |
ほうせんじまち |
寛永の大火のあと、犀川大橋詰にあった法船寺がこの地に再建されて、門前町をつくり法船寺町と呼ばれた。明治4年、宝船路町に改められた。地子町の一つ |
中央通町、長町2丁目 |
昭和40年9月1日 |
なし |
母衣町 |
ほろまち |
藩政のはじめころ、母衣衆と称する武士の邸地があったので、この名がついたという。地子町の一つ |
彦三町1丁目、尾張町2丁目 |
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なし |
本馬町 |
ほんままち |
本間町とも書き、本間殿町ともいった。町名は本間左近または本間助九郎が居住したことによるといわれる。明治5年、本馬町とした |
野町2丁目 |
昭和42年9月1日 |
なし |