旧町名復活・た行

た行一覧
旧町名 よみがな 由来 現在の町名 住居表示の実施 備考
大工町 だいくまち 寛永の大火のあと、ここに拝領地を受けて藩の御大工衆が住んだことからこの名がついた 片町1丁目(一部) 昭和41年2月1日 なし
大衆免竪町 だいじゅめ
たてまち
大衆目、大志目、大衆免とも書く。地名は当地一帯が二条家領の小坂荘であった時、当地は春日神社の別当寺であった神宮寺の大衆領の作田地として諸役が免許されていたことに由来する。明治初年には大衆免を冠する町が十八あった 森山1丁目 昭和41年9月1日 なし
大衆免中通 だいじゅめ
なかどおり
文政6年(1823年)成立。町名は金屋町から大衆免の地域に入る中央の道筋に当たるため、このように呼ばれた。一時期、大衆免を冠していた。大衆目、大志目、大衆免とも書く。地名は当地一帯が二条家領の小坂荘であった時、当地は春日神社の別当寺であった神宮寺の大衆領の作田地として諸役が免許されていたことに由来する。明治初年には大衆免を冠する町が十八あった。地子町の一つ 森山1丁目 昭和41年9月1日 なし
大衆免七曲り だいじゅめ
ななまがり
大衆目、大志目、大衆免とも書く。地名は当地一帯が二条家領の小坂荘であった時、当地は春日神社の別当寺であった神宮寺の大衆領の作田地として諸役が免許されていたことに由来する。明治初年には大衆免を冠する町が十八あった 森山1丁目 昭和41年9月1日 なし
大衆免横町 だいじゅめ
よこまち
大衆目、大志目、大衆免とも書く。地名は当地一帯が二条家領の小坂荘であった時、当地は春日神社の別当寺であった神宮寺の大衆領の作田地として諸役が免許されていたことに由来する。明治初年には大衆免を冠する町が十八あった 森山1丁目 昭和41年9月1日 なし
台所町一番丁 だいどころ
まちいちばんちょう
藩政時代、この地に台所付足軽屋敷などの組地があったことから、この名がついた。一番丁から七番丁まであった 城南2丁目 昭和39年4月1日 なし
台所町二番丁 だいどころ
まちにばんちょう
藩政時代、この地に台所付足軽屋敷などの組地があったことから、この名がついた。一番丁から七番丁まであった 城南2丁目、
菊川1丁目
昭和39年4月1日 なし
台所町三番丁 だいどころ
まちさんばんちょう
藩政時代、この地に台所付足軽屋敷などの組地があったことから、この名がついた。一番丁から七番丁まであった 菊川1丁目 昭和39年4月1日 なし
台所町四番丁 だいどころ
まちよんばんちょう
藩政時代、この地に台所付足軽屋敷などの組地があったことから、この名がついた。一番丁から七番丁まであった 菊川1丁目 昭和39年4月1日 なし
台所町五番丁 だいどころまちごばんちょう 藩政時代、この地に台所付足軽屋敷などの組地があったことから、この名がついた。一番丁から七番丁まであった 菊川1丁目 昭和39年4月1日 なし
台所町六番丁 だいどころまちろくばんちょう 藩政時代、この地に台所付足軽屋敷などの組地があったことから、この名がついた。一番丁から七番丁まであった 菊川1丁目 昭和39年4月1日 なし
台所町七番丁 だいどころまちななばんちょう 藩政時代、この地に台所付足軽屋敷などの組地があったことから、この名がついた。一番丁から七番丁まであった 菊川1丁目 昭和39年4月1日 なし
高道新町 たかみちしんまち 藩政初期の北陸道は、現道路(国道159号)より西側の低い所にあったが、その後、新しく山側の高い所に道ができ(現在の国道159号)、その道を「高道」と呼び、その界隈の町を高道町といった。高道新町は明治4年に成立した 山の上町 昭和41年9月1日 なし
高道町 たかみちまち 藩政初期の北陸道は、現道路(国道159号)より西側の低い所にあったが、その後、新しく山側の高い所に道ができ(現在の国道159号)、その道を「高道」と呼び、その界隈の町を高道町といった。地子町の一つ 東山2丁目、
山の上町、
森山1丁目
昭和41年9月1日 なし
竹田町 たけだまち 加賀藩士禄高三千五百三十石の竹田氏の下屋敷(家中町)があったところなので、明治2年、この名がついた 長土塀3丁目 昭和40年9月1日 なし
立川町 たつがわちょう 一時期、大衆免を冠していた。大衆目、大志目、大衆免とも書く。地名は当地一帯が二条家領の小坂荘であった時、当地は春日神社の別当寺であった神宮寺の大衆領の作田地として諸役が免許されていたことに由来する。明治初年には大衆免を冠する町が十八あった文政6年(1823年)町立てされた 森山1・2丁目、
東山3丁目
昭和41年9月1日 なし
谷町 たにまち 加賀藩士神谷氏の邸地だったので、神谷町と称したことに因むという。文政6年(1823年)、神谷町の一部から分立、町立てした。町名は神谷町の略称といわれる。地子町の一つ 長土塀2丁目 昭和40年9月1日 なし
田町 たまち 当地はもと田井村領であったことから、町地となった時に、田町と称したものという。地子町の一つ 天神町2丁目、
暁町、桜町
昭和41年2月1日 なし
田町新道 たまちしん
みち
文政6年(1823年)、田井新町を改称してできた。地子町の一つ 天神町1・2丁目、桜町 昭和41年2月1日 なし
玉井町 たまのいまち 加賀藩士禄高五千石の玉井氏の屋敷と同家の下屋敷・家中町があったところで、明治の初め、この名がついた 本町2丁目、昭和町 昭和40年9月1日 なし
田丸町 たまるまち 加賀藩士、田丸兵庫が藩政初期に住んでいたところで、兵庫は寛永期大聖寺藩に仕えたので、田丸兵庫上ヶ地町と呼ばれていた。のち、略してこの名がついた。地子町の一つ 本町1・2丁目、
昭和町
昭和40年9月1日 なし
茶畠一の小路 ちゃばたけ
いちのしょうじ
この地は、もと泉野村領で、藩政時代に茶の木を多く植えたので、この名で呼ばれたという。一の小路、二の小路がある 寺町4丁目 昭和38年6月1日 なし
茶畠二の小路 ちゃばたけ
にのしょうじ
この地は、もと泉野村領で、藩政時代に茶の木を多く植えたので、この名で呼ばれたという。一の小路、二の小路がある 寺町4丁目 昭和38年6月1日 なし
蔦町 つたまち 加賀藩士禄高七千六百五十石の青山氏の下屋敷(家中町)があったところで、同家の家紋「丸の内蔦」にちなみ、明治4年この名がついた 三社町、元菊町 昭和40年9月1日/
昭和41年9月1日
なし
土取場城端町 つちとりばじょうはな
まち
藩政前期から、このあたりの土を取って瓦を焼いたところからこの名がついたといわれ、また、土居や堤防を築くときにもつかわれたといわれる。文政6年(1823年)、土取場を冠する町が八町あった。地子町の一つ。明治4年から合併して三町になった 石引1丁目 昭和39年4月1日 なし
土取場永町 つちとりば
ながまち
藩政前期から、このあたりの土を取って瓦を焼いたところからこの名がついたといわれ、また、土居や堤防を築くときにもつかわれたといわれる。文政6年(1823年)、土取場を冠する町が八町あった。地子町の一つ。明治4年から合併して三町になった 石引1丁目、宝町 昭和39年4月1日 なし
手木町 てこのまち 藩政時代、城中の露地方として庭造りをしたり、藩主の行列の際に荷物を運搬する手木足軽の組地であったので、お手木町、御手木ノ町と称され、明治4年、手木町となった。 本多町1丁目 昭和39年4月1日 なし
同心町 どうしんまち 明治2年、多賀左近付同心組地が町立てされた時の命名 小金町、春日町 昭和41年9月1日 なし
殿町 とのまち もとは十間町の地内にあり、藩政期には、その中の武家地を殿町、町地を十間町と呼んだことからの遺名といわれる。地子町の一つ 大手町、
尾張町1丁目
昭和41年2月1日/
昭和45年6月1日
なし
飛梅町 とびうめちょう 前田対馬守長種にはじまる藩の老臣一万八千石前田氏の下屋敷(家中町)があったところで、同家の家紋「角の内梅輪」にちなみ、明治2年、この名がつけられた 石引3丁目、
東兼六町
昭和39年4月1日/
昭和41年2月1日
平成12年4月1日
復活
富本町 とみもと
ちょう
文政6年(1823年)に法船寺町から分立し、町内に鍔屋小路も含まれていた。明治四年、広小路と等雲寺門前を合併する。町名の由来は不詳。地子町の一つ 中央通町、
長土塀3丁目、
長町2丁目
昭和40年9月1日 なし
巴町 ともえまち 加賀藩士伴八矢の下屋敷(家中町)があったところで、その家紋「左三つ巴」にちなんで、明治2年、この名がついた。 笠市町、安江町 昭和40年9月1日 なし
豊国町 とよくにまち 観音山下町が改称されたもの。豊国神社社殿の麓にあったことから、明治元年、この名がついた 東山1丁目 昭和41年9月1日 なし

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